「織田作之助作品集〈第2巻〉」織田作之助の感想

 

織田作之助作品集〈第2巻〉

織田作之助作品集〈第2巻〉

 

 

 こうやって時系列順に読むと見えてくるものも多い。特に織田作之助の文学が円熟へと向かうちょうどこの時期に、戦中の言論統制で時代小説に転向せざるを得なかったことを、一読者として改めて悔しく思った。またこの時代小説の出来がよいのである。この時代に、もっと書きたいように書けていたらどんな素晴らしい作品があったかと思うと忸怩たる思いがする。

 

 いくつかの作品をピックアップし、感想を書きたい。

 

勧善懲悪

 ここまで俗悪な人物を語り部にすえて、ちゃんと読ませるというのはなかなか余人にはできぬ芸当だと思う。市井の人を描くのがうまいとかいうよくあることばでは言い表しきれない、織田作のひとつの到達点がここにあると思う。

 

 時代小説のなかでは、かなり普段の織田作の作風を引きずっている作品である。でもやはり全体的にはおとなしいというか、人間のどうしようもなさを表現する時の表現幅が織田作にしては小さくまとまっている感じはある。が、逆にそれが作品として美しい。これを単体で読むと「織田作の時代小説もいいじゃん」と思うのだが、戦前・戦後の作品と並べると表現者織田作の感じている窮屈さがはっきりと見えて、とても悲しい。

 

世相

 まあ、はっきり言ってこれが書きたかったの。

 志賀直哉に酷評されたといわれるのがこの作品である。

 語り部である作家(オダサク)が小説の題材を探すという設定の中で、さまざまな人物を描いていく一種のオムニバス方式であるのだが、なかなか他で見かけたことのない手法であると思う。同時に織田作の私小説的な性格も持ち合わせており、戦中自分の作品が検閲に引っかかり続けて書きたいものを書けなかった時期のこと、戦後この作品を書いている時の開放感なども書き、それでいて自身の小説に限界を感じていることを記したり、時代の転換期にあって、自身の作品の旧態を嘆いている。

 

 前半はいっそわざとらしいほどに俗悪に女性をあけすけに描写する。官能小説のようなドキドキする表現でもなく、ただひたすらどぎつい表現が続く。「ここまで書いてしまえる自分」を誇っているような印象も受け、志賀の「汚らしい」という評も、まあ、分からないでもない。

 ただ、ここで時系列順に読んでいることが効いてくるのであるが、この作品は長い戦中の言論統制の時代を超えて、やっと思うがままに書けるようになった転換期に発表されており、その開放感、何を書いてもよいということを大いに満喫し、確認し、読者にも示すためのものではなかったかと思うと、このちょっとやりすぎなほどのどぎつさも、なるほど必要だったかなと思ったりする。

 後半になると、この作品を書いた戦後すぐの時代の、焼け出された大阪の人々をまざまざと描きだして、その筆致は圧倒的である。途中に阿部定事件の描写を入れ、最後には男に性的に消費されつつも清く生きる女性を描いて終わる。前半のどぎつさはこれで完全に昇華されると思う。