「理想を実現するものは」 ~舞台・文豪とアルケミスト「異端者の円舞」感想~

 「文豪とアルケミスト」の舞台、「異端者の円舞」がめでたく千穐楽を迎えました。おめでとうございます。私は今回、この舞台を二回拝見し、あまりに感動して興奮のあまり寝られなくなったりしました。ありがとうございました。
 このエントリは、その眠れぬ夜に悶々と考えていた、やや重ための感情をただぶつけるためのものなので、暇な人以外は逃げてください。

 

 この舞台は、主に有島武郎カインの末裔」と武者小路実篤「友情」が題材になっています。有島武郎武者小路実篤、私のタイトルに「理想」って入っている時点で、予感がしますね?? 今から延々とその話をします。

 ところでみなさん、有島武郎カインの末裔」を読んだことがありますか? わたくしは今回、この劇のテーマが「カインの末裔」になることを知っていたので、劇を見る前にはじめて読みました。これが私の読んだはじめての有島武郎、ファースト武郎です。今からガンガン有島武郎のこと書くけど、つまり私はあまり有島武郎のこと知らない。しかし、出会って即、有島武郎に落ちてしまったので、むしろ今私の有島武郎熱はガンガン燃え盛っている状態です。

 で、「カインの末裔」の話です。「カインの末裔」って、あらすじ読むとなんか、めっちゃ面白くなさそうなんですよ。暗そうだし……。でも読むと全然印象違うので、もし読んだことない人は読んでみてください短いし。詳しい説明は省きますが、北海道の小作農を描きながら、ピューリタン的な労働倫理にたいする批判と、搾取構造の告発を行っているようにわたくしは思いました。私はスタインベックが大好きなんですけど、スタインベックが好きな人は絶対好きだと思います。なんか文章も物語構造もあんまり日本的でないです。
 有島武郎は、薩摩閥の有力者・有島武の長男です。当時の法律では長男がその家の家督を継ぐことになっていますから、彼は有島家の家督を継ぐ者として運命づけられ生きてきて、「カインの末裔」を書いた当時、まだニセコの有島農場の場主でした(後に彼は、農場を小作農たちの共同所有と相互扶助を条件に開放し、持主としての権利を放棄します。

有島農場の誕生と終焉|特集|北海道マガジン「カイ」

 この時点では、まだ彼は「カインの末裔」に出てくるあくどい場主と同じ立場です。そういう人があの作品を書くことの意味はちょっと考えられないくらい重い。しかし、場主の立場のままで小作人の苦しみを書くということへの違和感を、恐らく武郎本人が一番感じていたと思います。

 有島武郎が生前にも浴びせられたことばを、劇中でも浴びせます。上流階級の人間がなぜああいった作品を書くのか。あまりに立場が違いすぎるではないか。劇中の武郎ははっきりとした回答をしない。それどころか、「どうせ僕には彼らの本当のことは分からないのに(うろ覚え)」、と自分でも言い、追い詰められます。やめてよ…(私の心の声)。
 そこで武郎に語りかける(人の一人)のが、武者小路実篤です。はい、来ましたよ、白樺派の精神的支柱! 

 

 わたくし、有島武郎と違って、武者小路実篤のことは前から好きなんです。本当のことを言うと、私はどちらかと言うと柳宗悦の熱烈な支持者なんですけど、まあ、ともかく、この女は武者小路実篤が好きなんだな、ということだけ頭に入れてこの後を読んでください。
 この武郎と実篤のやり取りは、ちょっとわたくし高ぶりすぎていて、武者が何を話していたのか具体的にはあんまり覚えてないんですけど()、ザ・武者小路実篤でした。ともかくあまりにも、私の理想の武者小路実篤有島武郎でずっとこぶしを握っていました。
 武者小路実篤は前作の舞台から出ているのですが、この前作の舞台の武者が、ゲームの武者(ゲームのキャラはそれぞれ文豪の特性を引きずっているとは言っても、明らかに別の性格のキャラです)よりもずっと本物の武者小路実篤に近くて、私はめっちゃ好きだったんです!!! 今回も、この「カインの末裔」を扱っている前半の部分の武者は、あまりに理想の武者小路実篤でした……。諍いの中でさえ柔らかい言葉を紡ぎ、それでいて自分の信念は絶対に曲げない。ケンカをするべき時はするが、きれいなケンカをしようとする、それが武者小路実篤です。彼の言葉の選び方は、相手を人間として尊重する人にしかできない類のものです。武者は強く理想を信じ、理想なきもの(と思ったかどうか知らんが)のことばを柔らかくしりぞけ、折れそうな武郎の心を支える。最高だよ武者小路実篤。そんな武者小路のことばを聞いて、最後に武郎は言います。
「武者さんの言葉は魔法だ。平等で公平な社会、そういう理想が本当に実現出来る気がする(うろ覚え)」
 もうさ、これ……。どう思います??? エモすぎて吐いちゃう……。

 社会の不平等に対して深く思索し、アクションを起こしながらも、恐らく最後まで自身の正しさに自信を持てなかったであろう武郎。有島武郎の深い苦悩は、その文学を一段高めたとは思いますが、のちに彼が制作意欲を失っていったのもまた、この苦悩ゆえだったとも言われます。

 武郎のあまりに気高い理想には、それゆえに諦観が付きまといます。それに比べて武者小路実篤の描く理想には一点の曇りもない。困難や苦しみはあっても諦めはない。武郎は、実篤が理想を掲げて提唱した共同体「新しき村」について「この企ては失敗に終わるだろう」と書きました。それでいて、彼は「新しき村」の資金のために本を編集し、「白樺」の寄付金募集欄を担当し、陰に陽にその活動を支えてもいました。
 理想と現実の間で苦悩する有島武郎にとって、武者小路実篤の理想と実践がどのような意味を持っていたのか。文劇においてのその答えが先の言葉なんですよ。はぁ??? 吐いちゃう……。

 

 そして、物語の後半では武者小路実篤「友情」に焦点がうつります。文アルでは、過去の名作小説が「侵蝕」されると、その作者にも影響が出てしまうという設定があります。具体的に言うとちょっと精神を病んだり、記憶が混乱したりといったことが起きます。そして、この「侵蝕」というのは、作品に込められた「負の感情」によって引き起こされるそうです。なんか舞台ではそう言ってました。今回、「友情」が侵蝕されるのですが、そこで問題になるのがこちら。
「あのいつも前向きな武者小路実篤の作品に、負の感情が入り込む隙があるのだろうか」
 そんなものはないよ、て感じのことを芥川さんが言います。しかし、実際侵蝕されてるんだから負の感情があるんだよって前提で話が進みます。もうこの時点でわたくしなんか、ちょっと違和感あるわけですね。武者小路実篤と負の感情を紐づけて話さないでいただきたい、みたいな気持ちありますでしょ。芥川さんは正しいですよ。でも仕方ない、文アルはそういう設定のお話なんで。と思ってモゾモゾしながらも座って観ていました。

 そう、ここまでは仕方ないんです。文アルというのは、元々過去の名作小説がどんどん「侵蝕」されて消えて行ってしまう現象と戦う物語なので、登場人物の作品が侵蝕される話になるのは必然です。しかし、この侵蝕によって作者が受ける影響の方は、あまりちゃんとゲームで描かれていないんですが、おそらく個人差があると思われます。過去にゲーム内で「斜陽」が侵蝕されるというイベントがあって、だざいの精神がズタボロになってたことがありましたが、まあねって思ったんですけど、今回は武者小路実篤なんで!!! あの武者小路実篤! 大丈夫でしょって思いません? そんな影響受けないでしょ、武者小路実篤だぞ。ちょっとやそっと作品を侵されたからと言って精神を病むわけないだろ。
 ところがわたくしの予想と違って、なかなかどうして武者さんはボロボロになります。ここでちょっとわたくし、恐慌をきたしました。どういうことや??? 武者小路実篤やぞ???? 新しき村立ち上げ時にぼろくそ言われても「自分の精神には間違いがないと思っている。」て書いた武者小路実篤だぞ??? 君、知ってる?? 武者小路実篤知ってるの???
 でもね、明らかにこの脚本書いた人、武者小路実篤知ってますね。ていうか多分武者小路実篤めっちゃ好きです。めっちゃ伝わってきます。前作と今作の前半の武者見てみ? 完全なる武者小路実篤だよ。それをなんでここまで崩してくんの?? 意味分かんない……。て思って一回目は、「なんかすごく面白かったし、白樺派好きなんだなってのはすごい伝わってきたけど、一部よく分からない」という感想で帰るんですけど、帰った後ずっとこの武者小路実篤のこと考えまくってて、寝ながらもずっと考えて、早朝四時頃、半分寝た状態で一つの結論に至って、完全に覚醒しました。エウレカ

 

 「文豪とアルケミスト」ていうゲームには主人公はいないんですけど、プロモーションとか見てると、「芥川龍之介」と「太宰治」がこのゲームの顔らしい、ということはあきらかです。この二人が重視されると、自然とクローズアップされるのは白樺派志賀直哉です。
 ゲームでは、志賀直哉がいかに「小説の神様」として祭り上げられているかということに焦点があるように思います。あんまり詳しくないんだけど、多分文学史的にはそれはとても大きなトピックなんだろうと思います。ここは深入りすると長くなるのでともかく、ゲームでは志賀直哉が神様扱いされてて色々あるんだな、て思ってください。
 しかし、実際には、むしろ武者小路実篤こそが、その高邁な精神と前向きな作風から、神のごとく崇められてきた歴史があるのではないか、と思い至ったのです。
 志賀の崇められ方というのは、あくまでもその小説の技法というか、「小説家」としての志賀直哉ですが、我々(?)が崇める武者小路実篤は、小説家としての彼というよりは、その行動、性格、人格、作風としての前向きさと強靭さ、そういった彼の人間性そのもの、小説家・武者小路実篤を崇拝しているのではない、人間・武者小路実篤を崇拝しているところがあるように思います。
 少なくとも私は、彼がひたすら理想の共同体を具現し続けた(困難な戦時中でさえ)、その強靭な意思と高邁な精神に惚れ込み、神のごとく崇めているところがあります。
 だからこの劇の中で武者が侵蝕者の影響を受けたときに私は「武者の精神がそんな簡単に折れるはずない!」てキレたわけですよね。そんな簡単に精神折れられたら困っちゃうじゃないですか。私の中で武者小路実篤はちょっとやそっとで折れる人じゃない、その強さに惹かれて、その高邁な精神に救われてここまで来たんだよ私はよ。私たちと武者小路は違う存在なんだよ。あの武者小路実篤だぞ。

 いや、心の端っこでは分かってます。武者小路もそれなりに人間らしいムーブ決めてるときはあります。その最たる例は戦時中のもろもろですけど、もっと細かいところでもやっぱり人間らしい、ちょっとそれはどうかなダメじゃないかな、みたいなことの一つや二つや三つ四つはあります。でも私はそういったことにももっともらしい理由をいちいち見つけてつじつまを合わせて(武者小路自身がそういう作業をやっている部分もあるけど)、武者小路実篤は素晴らしい人だ、という結論を補強しようとしてきたな、と思います。でもこれ、私だけじゃないでしょう。こういう一派は常にいました。こういうことをしている武者小路実篤研究本、あるからまじで。この一派はお互いにこうやって武者小路実篤のすばらしさを確認して、補強していってるようなところがある。だから、私の頭の中の武者小路実篤は人間離れしています。人間らしい負の感情とは全く無縁かのような人です。

  しかし、武者小路実篤は人間である。それを文劇はあえてぶつけてきたんじゃないかと、まあこれは私の考えすぎかもしれないんですけど、でも明らかになるせゆうせい(脚本)は武者小路実篤好きだと思うのでやはり! あえて! ぶつけて来たんじゃないかと、わたくしは思うわけです!!

 ともかく後半の武者さんはものすごく人間くさいですよね。苦しみ、惑い、あまつさえ人を傷つけ苛む。でもそういうこともありますよね。だって人間だからな。私がなんとなく忘れていただけで武者小路実篤は人間だもの。これはなかなかの衝撃でした。武者小路実篤は人間である! 目を覚ませ! お前が崇拝するものは完璧じゃない、人間なんだぞ! って、文劇はわたくしのような信者を殴りに来たんじゃないかと思いました。

 これは実は、すごい、すごく感動的なことだと思ったんです。武者小路実篤は我々と同じ人間である。あれほど強い意志を持つ彼も、我々と同じ人間なのです。

 

 さっき、武郎と違って、武者小路実篤の描く理想には一点の曇りもないと私は書きました。でも本当はそうじゃない。彼は本当は挫折しています、認めたくないけど。彼は新しき村の中では生きられなかった。でもそれは、彼の理想が完全についえたということではありません。彼は最後まで新しき村のために働き、新しき村は今まで存続してきました。彼は最後まで投げだしたりはしなかった、そういう強さがあります。でもそれができたのは彼が人間だからです。人間は、このように社会を変革していける。少なくともたくさんの人間に影響を与えて、よりよい社会を希求し続けることができるのです。

 理想を実現するものは、神ではない、人間だ。理想を掲げ、諦観ではなく実践を。それを突き付けてくるのが「文豪とアルケミスト 異端者の円舞」だったと思います。