「ミュージカル刀剣乱舞 歌合 乱舞狂乱」を見て久しぶりに不安になったこと

 ミュージカル刀剣乱舞 歌合 乱舞狂乱 2019 に行ってきた。

 まずはじめに言っておきたいのは、全体としてとてもいいもので、クオリティの高いものを見せてもらったなあ、という気持ちがあるということ。演者さんも舞台装置も本当に素晴らしく、演出も基本的にはとても素晴らしかった。が、同時に見ているうちに不安になってくる感じもあった。

 なんか宗教儀式みたいだったのだ。

 これは熱狂的なファンとカリスマ性のあるタレントとの間で生まれる疑似宗教めいたもの、という意味ではなく、はっきりと宗教的なもの、もっというと神道の神事めいた構成でイベントは進行されていた。

 率直に言って、もし、普通の演劇で延々とあの儀式をやられたら、かなり気持ち悪い劇として記憶に残ったと思うが、ライブの演出とすることでその違和感を減らして、ふつうにみられるように工夫されていた。その辺はまさに演出の妙といったところだと思う。

 と同時に、それこそが私の不安の理由となった。ライブだからこそ現実と虚構の狭間が曖昧になる。演者は、演出の枠組の中から、そのキャラクターのままで客に直接「主」「主様」って話しかけてくる(ゲーム「刀剣乱舞」内でのプレイヤーへの呼び方)。そこで行われる儀式には、没入感がある。自分もその儀式に参加している感覚が強い。さらに、ライブの後半で歌われる呪文めいた曲は、ライブ期間がはじまる前にあらかじめネットに動画が公開されていた。歌と、印を結ぶみたいな振り付けを覚えてこいということだろうと思う。実際、ライブがはじまる前に前説で演者に「主様は歌だけいっしょに歌ってくださいね~」みたいなことを言われて練習させられたので、この儀式に参加しろということで間違いないと思う。(ちなみにこの呪文みたいな歌詞の正体は、カグツチの血から生まれた八柱の神の名前をタテヨミにしたものだそうです。これはファンの検証で分かったことで公式からはなんのアナウンスもない。完全に呪文。怖くないですか??? なにを私たちは歌わされているかも教えられずに、ただ歌ってくださいね~て言われるんですよ。ちょっと宗教じみてるよね…)

 作品の登場人物が特定の宗教を信仰しているという描写は全く気にならない。ていうかそれは別に当たり前のことだと思う。しかし、観客、ユーザも当然その宗教・信条を信じているという前提でことが進み、当然それに参加しなさい、と要求されるのは怖い。全然そんなつもりはなかったのに、宗教イベントに来ちゃったの? みたいな感じ。演出がたくみで、没入感がすごいから、より強くそう感じる。

 刀剣乱舞は扱っている題材上、どうしても神道と接近しがちだ。接近するなとは言わない、それは無理なので。ただ、この題材は宗教と結ぶつきやすいということ、ここは踏み越えていいラインか、そうでないか、そこを常に自覚的に精査してほしいと思っている。でも、もともとこの刀剣乱舞という作品はそこに自覚的じゃない。とても無邪気だ。今回も、そんな無邪気さを改めて確認させられたなあ、と思った。

 

 昔、刀剣乱舞のシナリオ担当芝村裕吏氏の「大東亜共栄圏」をめぐる発言が問題となり、のちに芝村氏はその発言を撤回されたことがあった。

 

  そののち、刀剣乱舞は「千代田のさくらまつり×刀剣乱舞-ONLINE- 江戸城下さくらめぐり」というコラボで、靖国神社を会場の一つとすることで炎上した。

 私も刀剣乱舞を運営するDMMとかニトロプラスが、大東亜共栄圏を目指し、軍国主義を標榜しているとかは全く思っていない。ただ、シナリオ担当が大東亜共栄圏の認識をあやまっていて問題になったあと(会社は把握してコメントも出していた)、ゲームが靖国神社とコラボしたらどう思われるか、ということを全く想定していない、その無邪気さが当時すごく気になって、無邪気さは罪になるな、と思った。共栄圏発言、靖国神社コラボ、このうちどちらか一つだけ起こったのなら、炎上はすると思うが、私個人としてはそこまで問題とは思わなかったと思う。ただ、重ねてこれらのことが起こるということは、彼らがまったく自覚的でない、何も考えていないという証明になってしまう。差別とかもそうだけど、そういうつもりはなかった、というのは言い訳にならない、むしろそういうつもりにすらならなかったことが問題だ。もともとの認識に隔たりがあるからこそ、そういうつもりもないのに、そういうことをしてしまうのだ。

 

 今回のライブの演出は、作刀の儀式を踏襲していて宗教的なものにしようという意図はない、という人もあると思う。その通りです。でもその通りだということ、無邪気に儀式をトレースしていることが私はめちゃくちゃ気になってしまう。私はこのライブに、なにかしらの儀式に参加するつもりで来ていない。板の上で神事的なことが行われるのはまあ、あり得るとしても、その儀式に組み込まれるつもりでは来ていない。同意がない。奉納神事のライブに行った時は、奉納神事なので、宗教儀式をするという同意のもと私は出かけて行っている。そこでお祈りがあったのは当たり前のことだ。でも今回は事前に同意がない。その中でそういう構成でライブをすることになんの躊躇いもなかったんだろうなっていうのが、無邪気だなあ、と思う。
 そもそも、踏襲しているとはいえ、正式な祝詞とかを踏襲しているわけでもなく、神聖な儀式をいじってエンタテインメント化し、そこに観客を組み込んでいることとかも、逆に神道の立場からはどう思われるのだろうか、という気もする。そこも、無邪気だなあ、と思ってしまう。

 一概にやるな、とは言わない。ただ内部で議論があったのなら、もう少し演出を変えてきていたと思う。舞台全体が一つの儀式、というような構成にはしなかったと思う。私ならフィクション感をもっと積極的に出したな、と思う。客を巻き込まない。

 今回のものが、即座になにか宗教的にとか政治的に問題だということはないけど、神道、とくに過去の出来事からし国家神道というものを、割と無邪気にとらえているんだなあ、という姿勢が再認識できたので、またあんまりうれしくない方向に無邪気に行っちゃうこともあるだろうという不安がすごくて、ライブではあるまじき静まり返った客席、物音一つたたないライブにはあるまじき緊張感の中、帰ろうかどうか迷っていた(ちなみにその場面で席を立ったらものすごく雰囲気をぶち壊すし目立つので、約1万5千人の耳目を集めたと思う)。

 

2020.1.26 追記

 この記事を書いたとき、「今回のものが、即座になにか宗教的にとか政治的に問題だということはない」と書いたのだけど、よく考えたら、相手にそれと知らせずに、特定の宗教の神の名前を唱えさせるのはやはり問題なのではないかと思う。信仰上の理由で、神道の神の名前を唱えることに忌避感をおぼえる人はいるのではないか。まあ、あの雰囲気見たら予感がして、多分唱えないとは思うけど。
 でも、神の名を唱えていることを開示せずに歌わせるのはやはり問題な気がする。