「民藝」の創始者、柳宗悦という人 その1

はじめに

 私は結構熱心な柳宗悦の支持者である。でも、友人や知人にはあまり柳宗悦好きの同志はおらず、一人で推し活をしてきた。

 しかし、最近ちょっと柳宗悦ブームが来ているんじゃないかと思う。友人にも柳について質問されたりすることがごくまれにだがあるし、国立近代美術館では民藝100年展が催される。チャンスなんじゃないか。今、柳宗悦について書くことは需要があるはずだ。
 そこで、ここに柳宗悦とその思想について、出来るかぎり簡潔に書こうと思う。みなさん柳宗悦と出会ってください。そしてもし、ご興味をお持ちになられたら、是非とも柳の著作を読んでいただきたい。
 ただ、一つだけ注意してほしいことがある。それはこの文章が一人の熱狂的支持者によって書かれているということだ。熱狂は盲信である。あることないこと、は書いていないが、あることからめちゃくちゃ話を膨らませて、柳宗悦の良さを誇張してしまっている可能性はあるので、話半分に読んでほしい。よろしくお願いします。

「白樺」時代

 柳宗悦は1889年(明治22年)生まれ。学習院高等科を首席で卒業、その後、東京大学で哲学や宗教、心理学を研究した。
 柳は学習院在学中に武者小路実篤志賀直哉(柳の学習院での先輩に当たる)らと共に雑誌「白樺」の創刊に参加、その後、壮年期までを「白樺」、民藝運動を興してのちは「工藝」「民藝」という雑誌を主な文筆活動の場とし、美術や宗教に深く思索をなした思想家だ。

 白樺派は文芸運動として捉えられていることもあるが、数多くの芸術家に発表の場を与え、西洋(のちに東洋も)の新しい芸術を数多く紹介した、広い意味での芸術運動だったと言える。柳は特に美術の部門で活躍した。
 「白樺」はデューラービアズリーゴッホセザンヌなど、西洋の幅広い画家を扱い、またロダンなど同時代の美術についても時差なく、最新の西洋美術界の動きを日本語で紹介した。これは洋行した同人たちによるリアルタイムの情報と、語学堪能な柳らの情報収集能力によって可能だった。
 初期の柳は、西洋美術に大きな関心を寄せ、日本に息づく美術や工芸、ひいては東洋美術を下に見ていた節がある。

「不幸にして本邦に於ける現代の芸術家、宗教家及び学者の前に跪づく可き幸を得ない吾等は、遠く西の国に隔りたる彼らに向ひて遙かに欣慕の情を捧げねばならぬ」
柳宗悦「宗教家としてのロダン」、『白樺』1910(明43).11月号)

 彼のこの認識は、浅川伯教、巧兄弟との出会いによって大きく変わった。「白樺」の愛読者だった浅川伯教は、我孫子柳宗悦宅を訪れる。当時すでに李氏朝鮮時代の陶器を愛好していた伯教は、数個の朝鮮陶器を持参し、柳に紹介した。これらの陶器の美しさに深く感動した柳は、1916年、浅川兄弟と共にはじめて朝鮮半島を旅し(この時浅川兄弟は朝鮮半島に住んでいる)、この地の美術、工芸に深い感銘を受けた。この朝鮮美術に出会った時の衝撃が、やがて「民藝」の発見につながるのである。
 李朝時代の陶器の一部は、日本でも古くから茶人などによって評価されたものもあったが、体系的にその歴史や分布を研究する者はなかった。本場の朝鮮半島でも系統だった分類は進んでいなかったようである。これらを実地に調べ、研究し、朝鮮陶器の歴史研究や分類に大きな道筋をつけたのが浅川兄弟であった。柳もその実地調査に同行し、記録を「白樺」誌上などに発表した。しかし柳は、あまりこういった系統だった調査自体には不向きであったと思う。彼は、その土地に残るかつての陶工たちの仕事の跡に感動し、今なおその地に残る細やかな手仕事の美しさに心を動かされ、情熱的な文章を物した。彼の朝鮮美術に対する愛は、それを生み出した朝鮮民族に対する愛と尊敬へと発展する。彼にとって、「美」は尊いものであり、「美」は人によって生み出されるものであり、「美」を愛することは、なによりもまず、それを生み出す人々を愛することであった。

 朝鮮美術によって東洋の美術へと目を開かれた柳は、日本の美術にも注目していくことになる。しかし、彼の興味は、貴族や大名、金持ちの商家などが蒐集してきた、名のある芸術家たちの作品へは向かわなかった。もっと民衆的なもの、日常の実用品として、むしろ美しいものを作ろうなどという意識が働かないまま自然に作られた、名もない職人たちによる作品にこそ「美」を見いだした。これが「民藝」の発見である。

「民藝」の発見

 「民藝」という語は、柳、河井寛次郎濱田庄司が「下手物(げてもの)」に代わる言葉として考え出した造語である。なので、柳らの活動がはじまった時のことを「民藝の提唱」と称することも多いが、私はこの時のことを、やはり民藝の発見である、と書きたい。なぜなら、人々の生活の中に、もともと「民藝」はあったからである。そして、大量生産によってそれらの手仕事が失われつつあった時、柳らによって「民藝」の美しさは発見された。

 民藝の考え方に大きな影響を与えたものの一つに、イギリスの美術家兼思想家、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動が挙げられる。産業革命を経て、工業国となったモリスの時代のイギリスでは、近代化工場での劣悪な労働環境が問題になっていた。かつての職人たちは工場労働者となり、労働と手仕事の喜びから遠ざかってしまった。労働者を工場の作業から解放し、手仕事へ回帰させ、生活と芸術を一致させるための芸術活動がアーツ・アンド・クラフツ運動である。民藝運動の大量生産から手仕事への回帰という方向性は、アーツ・アンド・クラフツ運動からの影響が大きい。

 もう一つ民藝運動に大きな影響をあたえたのが、同じ白樺同人だった武者小路実篤の思想だと思う。武者小路はトルストイなどから影響を受け、比較的早い時期から社会主義的な共同体の構想を抱いていた。この構想は1918年、「新しき村」の開村をもって結実する。共同体の中で一定の労働を行えば、誰もが衣食住を得ることができ、余暇の時間は芸術的な活動に充てることができる。階級もなく、過重労働もない、人が人らしく生きられる理想郷を目指したのが「新しき村」だ。柳は「新しき村」を熱心に支持していた。武者小路の高邁な開村の精神に心打たれていたようである。

 柳は「工藝の協団に関する一提案」(1927年)によって、新作民藝品を作る工人たちの協団を提唱する。この文章にはモリスと武者小路の影響が顕著である。
「協団であるからには、一つの村に形作られるのが一層必然であろう。これによって更に深く相愛の実を挙げる事が出来る。それは理解と相愛とによって、結合せられた一個の自治体になる。」
「かつてモリスは同じような運動を起した。実際彼の意思に共通な幾多のものを私たちは感じている。」

 モリスや武者小路の思想には、社会改良運動的な要素が色濃い。個人を始点に、社会を改革していく運動である。しかし、柳の活動の軸は、基本的には美と人の一対一の関係にあったと思う。美しいものによって社会を変えていこう、ということではなく、一人一人の生活が美に根差したものになることを目指した。社会全体の構造にインパクトを与えようというような思想はなかったと思う。しかし、美しい生活を目指すには、美しいものを作り出す人々が、それによって対価を得て、生活できるようにしなければならない。それでいて民藝品は、決して金持ちしか手に入れられないような、高価なものであってはならない。この両方を実現させるためには工藝の協団が必要であると、柳は考えたのである。

 この考えのもとに柳らが結成した上加茂民藝協団は、「生活の道徳面に欠陥が現れて」二年半足らずで解散してしまった。しかし、柳の考えに共鳴した出西窯などの民藝の工房が興り、現在でも盛んに活動している。

帝国主義への反論

 柳は様々な地域にのこる、人々の生活に根差した工芸品を探し出して評価した。彼はそれぞれの地域の文化を理解しようとしたし、尊重しようとした。その地域の工芸は、その地域の文化の中でしかはぐくまれないからだ。日中戦争を経て、太平洋戦争へ向かうこの時代、いわゆる日本列島内の工芸に対する再評価としての「民藝」は割と歓迎された。しかし朝鮮半島沖縄諸島などの文化は軽んじられていた。柳の心がこれら軽んじられた民族へと向かったのは、当然の結果だったと思う。
 1919年、朝鮮半島で日本からの独立運動三・一運動が起こる。柳はいち早く、朝鮮総督府(日本の官庁)による独立運動の弾圧に抗議した(「朝鮮人を思ふ」)。さらに翌年発表された「朝鮮の友に贈る書」では、柳特有の感傷的でありながら格調高い文章で「情愛」によって繋がる平和主義を説いた。
「人は大かたの苦しみは忍ぶ事も出来よう。しかし愛と自由とを欠く処には、どうしても住む事が出来ないのである。」
「まさに日本にとっての兄弟である朝鮮は、日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも、日本にとっての恥辱の恥辱である。」

 柳は、朝鮮民族が誇り高く、すばらしい文化水準を持つ民族であることを内外に知らしめるため、浅川兄弟と共に朝鮮民族美術館を設立した(1924年)。柳は一貫して日本の朝鮮政策を批判した。しかし、朝鮮民族による完全な独立政府が樹立されるべきだというような踏み込んだ主張まではしなかった。先に述べたように、柳には社会構造や政治体制そのものを変革しようという思想がなかったのである。また、柳は戦争や暴力といったものを全く認めなかった。日本の侵略戦争を批判したが、独立のための戦争も認めていなかった。こういった植民地政策への迎合ともとれるような態度が原因で、現在の韓国国内での柳の評価は二分されている(亡くなった後に韓国政府から宝冠文化勲章が追贈されるなどの、一定の評価は受けている)。

 また、沖縄の工芸品に心を惹かれていた柳は、1938年、はじめて沖縄へ渡る。沖縄では最後の琉球国王の弟である尚順の協力などもあって、様々な沖縄の文化を見ることができた。柳は沖縄の工芸品だけでなく、その言葉、文学、音楽、舞踊、建築あらゆる固有の文化に非常な感銘を受けた。柳ら民藝協会の面々はその後も数回にわたって沖縄を訪れる。その際『民藝』誌上などに掲載されたレポートや写真、動画などは、戦争で灰燼に帰す前の沖縄の姿を伝えて、貴重である。
 1940年、柳らは今後の沖縄観光の活性化のために、国際観光局などに呼びかけ沖縄旅行の同行を依頼。この時、沖縄で行われた意見交換会において、観光局水澤澄夫氏が、沖縄において家庭でも標準語を強要するのは行き過ぎではないかと発言したのを発端とし、「琉球方言禁止」をめぐる問題が沖縄、のちに東京でも大激論となった。県庁学務部は標準語奨励は国策であり、沖縄出身者が標準語を話せないことでいかに不便を被っているか、などの内容の声明を在沖新聞三紙に掲載。すかさず柳も在沖三紙に反論を掲載。骨子は
・標準語奨励は必要、全国で同じ言葉が使われるのは意義深い
・しかし固有言語否定は固有文化否定である
琉球語は日本の古語に近く重要な言語
という三点であった。
 柳らは、家庭内でまで琉球方言を禁止してしまうことによって、完全に沖縄各地の言葉が失われてしまうことを危惧したのであり、標準語教育自体には理解を示していたのだが、沖縄では幾分過剰に受け取られたようにも思える。また、柳らには研究者としての目線もあったので(しかし本質的には沖縄への尊敬と愛からの行動であったのだが)、ものめずらしい賤民を研究対象として取り扱うような、差別的行為ととらえられ、反発された面もあっただろう。
 沖縄を出て、日本各地で学び、働き、あるいは軍隊に入る際に、標準語をうまく話せないことで沖縄の人々は様々な差別を受けていた。完全な日本人と認められることによって沖縄への差別的待遇を失くそうとしていた県内の人々の動向に、柳らの訴えが相反したという点もある。しかし、あくまで柳は、沖縄の美しい言葉と、その言葉で書かれ、歌われた芸術が失われるのを危惧したのである。沖縄内でも柳らに理解を示す層もあり、琉球新報などは柳に同調したが、県庁の反発は大きかった。
 東京では柳の盟友・武者小路実篤をはじめ、立場は異なれど柳田國男なども柳らの論に同調した。ちょうどこの時期は言論統制が強まった時代でもあり、柳らの論は当局には無視された形で終わったが、沖縄に限らず方言を悪ととらえていた当時の一部の風潮に一石を投じた。

 これら軍国主義時代の出来事には、柳の思想の非常に重要な部分が表出していると思う。それは徹底した平和主義と、あらゆる人間の尊厳を守護しようとする姿勢である。彼は「美」を生み出す人々は、その人自身が美しいのだ、という信念に基づいて、人間性というものを全く信頼していた。そして、戦争を人間性から最も遠いものだと思っていた。楽観的かもしれない。しかし、戦時中も全くぶれることなくこの主張を続けたことが、柳宗悦の凄まじさだと思う。

 

 まだ、柳の宗教論や彼の著作の集大成ともいえる「美の法門」など書きたいことがあるんですが、長くなりすぎるので一旦ここまでとします。

宣伝

mingei100.jp

今、東京の方の国立近代美術館で、柳宗悦没後60年記念展「民藝の100年」展開催中です! 近代美術を扱う館での民藝展、なかなかユニークな展示になっているんではないかと思います。まだまだ是非行ってくれとは言いにくい状況ですが(私も行けるかまだ不透明なんですが)行ける方はぜひ行ってみて、民藝というものを感じていただければと思います! 

 

↓ つづき

tsubana.hatenablog.com