忠義にならでは捨てぬ命、ー「新作歌舞伎 刀剣乱舞『月刀剣縁桐』」感想ー

 新作歌舞伎『刀剣乱舞』のコンセプトは「もし江戸時代(歌舞伎のつくられた時代)に刀剣乱舞があったなら、当時の人はどういう歌舞伎にしただろうか」というものだそうで、基本的に歌舞伎の価値観で解釈しなおした『刀剣乱舞』だったと思う。その結果、多くの時代物の歌舞伎と同じく、「歌舞伎刀剣乱舞」のテーマは「忠義」であった。と同時にその「『忠義』よりも重いもの」こそが真のテーマであったとも思う。

 歌舞伎の世界では忠義は重い。めちゃくちゃ重い。 〽恋と忠義はいずれが重い  なんて申しますけれど、実際忠義のほうが重い。『仮名手本忠臣蔵』でも由良之助が言うておる。「四十余人の者どもは、親に別れ子に離れ、一生連れ添ふ女房を君傾城の勤めをさするも、亡君の仇を報じたさ。」つまり親子の情より、愛する妻より、忠義に殉ずる方が大事なんである。忠義のために自分の妻子を殺す話も歌舞伎には割とよくある。そのくらい忠義は重いのである。

 歌舞伎「刀剣乱舞」で最初に忠義が重いな、と思ったのは、はじめて会った義輝に「家臣になれ」と言われた三日月が、「家臣にはなれない」と断るシーン。他のメディアミックスの「刀剣乱舞」だと刀剣男士は割とその時代の主君に仕えたりするし、ゲームでも「修行」に行った先で元の主に仕えているように見える描写も結構あるが、歌舞伎本丸の刀剣男士たちは頑として義輝には仕えない。刀剣男士は歴史を守るために、義輝を歴史通りに死なせなくてはならない。死ななくてすむ道を義輝に示すことができない。忠義は情だけでは果たせないものである。何があっても主君を守らねばならぬのに、そのための諫言すらできない刀剣男士は義輝の家臣にはなれない。
 もう一つの仕官を断る理由は、「忠臣、二君に仕えず」で、すでに審神者に仕えている彼らは他に主を持たない。この時代に審神者がいない、とかは関係ない。『仮名手本忠臣蔵』を見れば分かるように、たとえ主君が亡くなり、御家がお取り潰しになろうとも、亡君の恩に報じるのが歌舞伎の価値観だ。ここで義輝は三日月の「前の主」じゃないのか、彼はすでに二君に仕えてるんじゃないのか、という思いが脳裏をよぎったが、三日月が義輝にお仕えすることはできないが、「おそばでお見守り入ることなれば」できる、と言ったことで私としては腑に落ちた。刀であった時代の三日月は義輝に大事にされていたが、モノであった三日月はその「恩」に報じることができず、ただ義輝を見守ることしかできなかったんではないか。それはやはり、歌舞伎の価値観としては正しい主従関係とは言えない。刀としての三日月は、義輝に仕えたかったかもしれないが、真の意味では仕えることができなかった。そう考えると、二回目に義輝に「家臣になれ」と言われた三日月が無言であったことにも重さを感じる。仕えたかったが、仕えられなかった義輝に、再三「家臣になれ」と求められる三日月の思いは、ちょっとことばにはしがたいのではないか。

 このように前半で忠義の重さを存分に描いたうえで、後半では忠義の人、松永弾正が謀反を起こすまでを描くのである。忠義の重さを描いてきたからこそ、謀反を勧める久直が思いつめる様子も説得力が増す。忠義の人、松永弾正がそう簡単に義輝を討つことに同意するはずがないのだ。しかし久直は「正しい歴史を守るため」にそれが必要であることを納得するし、松永弾正も久直の死を賭した説得に応じ、義輝を討つことを決めるのだ。正しい歴史を守るため、もっと言うと後の世の人々のため、「公共の福祉」というとちょっと違う感じがするが、ともかく忠義という個人間の契約よりももっとパブリックなもののために、非常に重い「忠義」を捨てた。これはちょっと新しいなと思った(歌舞伎としては)。そして「忠義」の重さをじっくりと書いているからこそ、この新しく提示された「公共」の重さのすごみが増す。

 このように表現としては新しいな、とも思うんだけど、それでもやっぱり、これは歌舞伎のいつもの趣向だな、とも思う。歌舞伎が「忠義」を書く時、本当に忠義そのものを書いているだろうか。
 江戸幕府のもと、歌舞伎は取り締まりから逃れるために、忠義の重さをことさら強調しなければならなかった。忠義よりも恋とか、愛とかを選ぶヤツは、歌舞伎の中では破滅せねばならない。忠義より愛を取る人間に憧れる人が増えると、封建社会が維持できなくなるからだ。忠義に殉ずる人間は美しい。しかし、『熊谷陣屋』は、『寺子屋』は、ただ忠義を称揚するだけの物語だっただろうか。ままならぬこの世のことわり、忠義はなによりも重い、ということに押しつぶされる人々の悲哀を描くことで、反戦とか、愛とか、そういったものを実は称揚しようとしていたのではないか。そしてそういう作品の心が今の人間にも響くからこそ、これらの作品は今でも繰り返し上演されているのだと思う。

 はっきり言って、歌舞伎が後生大事に繰り返し書き続けている「忠義がなによりも重い」なんて価値観は時代遅れの死んだほうがいい価値観である。しかし、新作であるこの歌舞伎刀剣乱舞では、この時代遅れな価値観をしっかり書くことで、その上に置かれた「公共」という概念の重みが増した。こうやって、制約がある中で、時代を超えて普遍性を持つような物語を作っていくことこそが「伝統を守る」ってことなんじゃないか。古い技法を守り、古い価値観をも使いながら、そこに現代の価値観をそっと載せることで現代に生きる物語に仕上げていると思った。やっぱり松岡亮はハンパない。松岡亮が松竹にいてくれてよかった。

 そしてもう一つの新しい表現が「異界の翁、嫗」だ。このキャラクターは明らかに土蜘蛛である。あまりに蜘蛛のモチーフを多用しすぎだし、詞章にもそれらしきものが散りばめられている。三日月も「まつろわぬ民」「戦に傷ついた人々の怨念」である、と言っているので土蜘蛛でしかない。しかし作中では彼らを土蜘蛛だとは一言も言わない。
 土蜘蛛はそのものズバリ『土蜘』ていう演目が歌舞伎にもある(九月に歌舞伎座で上演されますよ!)。頼光とその手下が土蜘蛛を退治する、あの勧善懲悪物語である。土蜘蛛は歌舞伎の世界ではあまりに悪役のイメージが付きすぎている。だからあえて、今回その名前を出さなかったのではないか。異界の翁、嫗は今作でも悪役なのだけれど、ヒーローであるところの三日月は、最初から最後まで彼らに同情的なことを言い続けている。今回の歌舞伎「刀剣乱舞」は、ぱっと見の構造としてはいつも通りの単純な勧善懲悪の物語のフォーマットを使いながら、これは単純な勧善懲悪ではないですよ、という合図を常に出し続けていた。これもやっぱり、新しくて、同時に「伝統を守る」物語の作り方だなと思った。やっぱり松岡亮、タダモノではない。また新作を楽しみにしています。

 

☆めちゃ脚本家を褒めた後ですが、駄目だなって思うところもあった。刀剣乱舞のメディアミックスである以上、もう少し刀剣男士のほうにもスポットを当てたエピソードがほしかった。特に小狐丸はもうちょっと見せ場を作ってあげるべきだったかなと思う。けんけん自体はめちゃ見せ場あるので歌舞伎的にはOK! て感じなんですけど小狐丸ファンはがっかりするんじゃないかと思った。
 ただ、これは脚本の問題で、役者さんたちのキャラクターの解釈はすごくよかったと思う。特に吉太朗さんの膝丸の解釈は最高やな! て思ってるけど、これは贔屓目入っている可能性あるので……。

☆はじめて歌舞伎を見る人に中村梅玉を見せるってのは大正解! ですよね! 中村梅玉を嫌いな人はいないからね。この世には中村梅玉が好きな人間と、中村梅玉をまだ知らない人間しかいないからな(私見です)。

☆私は美吉屋贔屓で、吉太朗さんがこのような大きな役をしているのを見られて本当に感謝しかない。関係者の皆様に心よりお礼を申し上げます。特に松也丈!! 本当にありがとうございました!! もともと好きですけど、もっと好きになりました!

☆初日の配信を見ながら、「あかん、鷹之資が世界に見つかってしまう」て思った。もともと素晴らしい役者さんですけど、まだ一部の人にしかその素晴らしさが認識されてなかったと思う。今回は、ただいい役を当てられたというだけでなく、良い経験を積ませてあげたい、という松也丈の親心(?)的なものも感じて、鷹之資丈にとって、とても大切な作品になったのではないかと思います。

☆こ、この音楽何や~~~! とか、クライマックスで突如焚かれるスモークに「な、何がはじまるんや、松也と右近がデュエットでもするんか?」とか、歌舞伎ファンとしても新鮮な驚きがあり、楽しい舞台でした。とうらぶファンとしては、歌舞伎は刀剣男士たちの人間離れしたところ、付喪神感を大事にしている演出も多かったように思うので、刀剣男士のモノ感が好きな私は結構楽しかったです。