野咲カノン(つばな)のブログ

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STAR WARS TRIROGY (旧三部作、Episode 4~6) はじめて見る人向け(ネタバレなし)

 友達がトリロジーを見てみたい! と言ってくれたので気合を入れすぎて解説を書いたので、ブログにも載せます。主に現在見ると分かりにくい70年代、80年代の作品としての文脈、革命的だったSFXについてごく簡略に書きました。
 ネタバレなしです!!

 

●スター・ウォーズ トリロジー(旧三部作)はファンタジー!
 神話学者ジョーゼフ・キャンベル提唱の神話の基本構造を踏襲したストーリー展開。
 SFと思って見ると、科学的に起こり得ないことが起こり続けるので混乱します。
 「そうはならんやろ」を「そうなるのかぁ。フォースってすごい!」って思えるかが楽しめるかの分かれ目。May the Force be with you.

 

●トリロジーの魅力SFX!
 現在のような高機能パーソナル・コンピューターのなかった時代。当時まだCG合成は不可能であり、すべてSFX(特殊効果)で映像を撮影した。(完全アニメーションのカットなどには一部CGを使用)
 同時にマイクロプロセッサの普及によって、コンピューターで緻密な計算が可能となった。ILM社はSFXに積極的にコンピューター制御を取り入れ、特撮技術に革命を起こした。

スター・ウォーズで使われたSFX技術(の一部)
光学合成……複数の元フィルムをオプチカル・プリンターという機械で合成する技術。通常3枚までの合成だが、スター・ウォーズでは4枚以上の合成を使用。
モーション・コントロール・カメラ……スター・ウォーズの撮影のためILM社(ジョン・ダイクストラ)が開発。コンピュータ制御でカメラや被写体の位置をプログラムし、合成時のズレが出ないようにする。宇宙戦のシーンなどに多用。通常ミニチュアの宇宙船の方を動かして撮影するが、コンピューター制御のカメラの方を動かして船に近づいたり、様々な角度に回り込んだりして、船が動いているように撮影した
ストップモーション→ゴー・モーション
……昔からあるストップモーション(静止画コマ撮り)撮影技術から発展したゴー・モーション(コンピューター制御で動く被写体をコマ撮りする手法)をILM社(フィル・ティペット)が開発。なめらかな動きを実現。Epi.5から使用された。
マットペイント……合成用背景画。実写と見間違うほどの精巧な絵をガラス板に書いたもの。宇宙空間や、惑星都市など、トリロジーのほとんどの背景はペイント。スター・ウォーズのマットペイントの基本のサイズは191㎝×84cm
オート・マット・カメラ……焦点深度が深くゆがみの少ないアナモフィック・レンズを使用し、マットペイントを撮影しても、現実の風景のように見えるカメラ。Epi.6のデス・スターに皇帝が降りたつシーンに使われている。
ロトスコープ……撮影した実写映像を1コマずつトレースして描き、その絵を動かすアニメーション技術。ライトセーバーなどに使用。

 

●ドルビーステレオ革命
 当時はまだモノラル音声(中央一か所の音声)の映画館も多かった。『スター誕生』ではじめて採用されたドルビーステレオシステム(左、左+右、右、リアの4チャンネル、ノイズ軽減処理)を『スター・ウォーズ』も採用。画面上の動きに合わせて、音声も動くサウンドデザインは当時衝撃的だった。この作品によって、世界中の映画館が次々とドルビーシステムを採用していった。

 

●アメリカン・ニュー・シネマ(ニュー・ハリウッド)の終焉
 60年代末~70年代のアメリカでは、反体制的な若い主人公が登場し、過激な暴力表現、性表現が表出する、社会への抵抗がテーマの作品群が多く現われた。これらの作品群は、アメリカン・ニュー・シネマ(ニュー・ハリウッド)と呼ばれる(『俺たちに明日はない』『イージー・ライダー』『時計仕掛けのオレンジ』など)。
 『スター・ウォーズ(Epi.4 新たなる希望)』は提唱者によってはアメリカン・ニュー・シネマの最終期の作品としてカウントされることもある(社会への怒りの表出、暴力表現等)が、『ジョーズ』『ロッキー』『スーパーマン』などとともに、商業的で大衆的な新しいハリウッド映画の潮流を作っていった黎明期の作品とされる。ここからハリウッドは黄金の80年代に突入する。

 

●ベトナム戦争の影響
 ジョージ・ルーカスはベトナム戦争ど真ん中世代(徴兵制対象年齢)。スター・ウォーズ公開は、ベトナム戦争終結の二年後。この作品はかなりベトナム戦争の影響を受けている。

アメリカ合衆国から見たベトナム戦争の経緯と、ルーカス超略年表
1965年 合衆国ベトナム戦争本格参戦  ルーカス21歳 大学生
1967年 軍事選抜徴兵法(合衆国)制定。徴兵年齢が35歳までに拡大
1969年 ソンミ村虐殺事件発覚 米軍による戦争犯罪ジェノサイド
1970年 徴兵法(合衆国)改正により、順位付の徴兵から抽選での徴兵へ移行
1973年 合衆国ベトナム戦争から撤退 合衆国徴兵制を廃止
    ルーカス29歳 監督作『アメリカン・グラフィティ』が大ヒット 
1975年 サイゴン陥落、ベトナム戦争終結
1977年 監督作『スター・ウォーズ』(Epi.4「新たなる希望」)公開

 ベトナム戦争で、合衆国は5万人以上の死者を出し、10万人以上の傷病兵、そしてそれ以上の数のPTSDに苦しむベトナム帰還兵が帰国し、彼らは社会復帰が困難な状態にあった。また、アメリカでは伝統的に退役軍人は尊敬されるのだが、前記のような戦争犯罪が明らかになっていたため、「正義の戦争」という建前が崩れ、社会のベトナム帰還兵への目線は冷ややかなものがあった。
 ハイテクの大国とローテクのゲリラが戦う構図、ゲリラ戦の威力と人命消耗の激しさ、政治家への不信と信頼、軍人の誇りと人間性への賛歌、正義(right side)の危うさと悪(dark side)の容易さといったスター・ウォーズ旧三部作のテーマには、ベトナム戦争の影響を感じる。

 

●関連会社
ルーカス・フィルム
ジョージ・ルーカスが映画制作のために設立した映画・TV制作会社。2012年ディズニーに買収された。現在すべてのスター・ウォーズの新作映画、ドラマシリーズにジョージ・ルーカスは関わっていない。

ILM(インダストリアル・ライト・アンド・マジック)
ルーカスフィルム傘下の特殊効果、視覚効果、CGの会社。最初は『スター・ウォーズ』撮影のために作られた期間限定の会社でいったん解散したが、Epi.5撮影時に再結成、ハリウッドの特撮技術に革命を起こした会社である。『スター・ウォーズ』『ターミネーター』『パイレーツ・オブ・カリビアン』『ハリー・ポッター』シリーズなどの特撮、CGを担当。

スカイウォーカー・サウンド
ルーカスフィルム傘下の音響効果、サウンドデザイン等の会社。『スター・ウォーズ』『ジュラシック・パーク』『トイ・ストーリー』などのシリーズ、
日本作品でも『踊る大捜査線 BAYSIDE SHAKEDOWN 2(海外配給版)』『ブレイブ・ストーリー』、ゲーム『FINAL FANTASY IX』『メタルギアソリッド4』などを担当。

ピクサー・アニメーション・スタジオ
ルーカスフィルムのCGアニメーション部門として発足。1986年に独立後、2006年にディズニーに買収された。

 

恋しかるべし松竹座

 堺筋の電車道を越えたとたん、もう道頓堀の明るさはあっという間に私の躯をさらって、私はぼうっとなってしまった。
 弁天座、朝日座、角座……。そしてもう少し行くと、中座、浪花座と東より順に五座の、当時はゆっくりと仰ぎ見てたのしんだほど看板が見られたわけだった

『アド・バルーン』織田作之助

松竹座 ファザード

 

 「芝居まち」道頓堀の時代もいまは昔、五座に芝居茶屋が立ち並んだ道筋も様変わりし、仰ぎ見て楽しむ芝居小屋の看板も、飲食店などの立体看板へと取って変わった。
 その変わり果てた道頓堀で、最後まで芝居小屋の看板を上げ続けたのが松竹座だった。

 私がはじめて松竹座の中へ足を踏み入れたのは2012年。中村又五郎・歌昇親子の襲名披露興行だった。
 正面階段を上がって中ヘ入れば、磨き上げられたきらきらしい大理石の壁と、美しい模様に彩られた床の一階エントランスロビー。エスカレーターを上がった二階メインロビーでは白い大理石に落ち着いた桃色の絨毯の床という、美しくも柔らかい色調に変化し、芝居の時間が近づいて、上の階の劇場空間に上がれば、木目調にややくすんだ朱色の絨毯の、和の劇場らしい色彩へと収束していく。ロビーの照明器具はアーチ状の天井の中に半ば隠されて、反射を利用した柔らかくあかるい光が満ち、昼間には正面ファザードの大窓から差し込む自然光、夜には道頓堀のネオンの反射がきらめいて、夢のように美しく、それでいてあたたかい空間だった。華やかな非日常へ一瞬でいざなう白いロビー、優しく静謐な劇場空間。非日常を日常にするマジックがさりげなく、そこかしこに散りばめられた、永山武臣元松竹会長の「豪華でそれでいて温かい雰囲気を持った劇場」という理念が息づいた空間だった。はじめて見た吉右衛門の『碇知盛』、梅玉の義経と仁左衛門の弁慶という強烈な観劇体験も含め、生涯忘れえぬ一夜となったのだった。

 

www.kabuki-bito.jp

 個人的に松竹座の大変好きだったポイントは、見た目は洋風なのに、中身は和の劇場であることだ。これは、元々映画館として建設された松竹座を、歌舞伎用劇場として建て替えたことから起こったミスマッチなのだが、このちぐはぐさがめちゃ大阪っぽいなあ、と思っていた。和の劇場だからと言って外側も和である必要はない、名より実を取る仕事。という面もありつつ、歴史的に価値ある松竹座の正面ファザードを保存するための改築工事でもあり、採算を度外視した、名誉ある仕事でもあった。

二階ロビー 正面側

 動線の良さ、座席の心地よさ、見やすさ、狭い中でも確保された休憩スペース。松竹座で過ごした時間を一つ一つ思い返してみれば、本当によく考えられて作られた、心のこもった劇場であったなあと思う。それを当然の権利かのように、当たり前の顔をして消費してきたことが本当に心苦しい。14年間、私の人生に松竹座は寄り添ってくれた。私に歌舞伎を教え、OSK日本歌劇団を教え、アルテイソレラを教えてくれ、私の人生を彩ってくれた。それは当たり前のことではない。道頓堀や難波周辺から劇場が無くなっていったのは、ここで興行を打つことが難しくなっていったからである。それでも上方の文化を残さねばならないと考え、特に上方歌舞伎を残すために奔走した先人たちが残してくれた、形あるレガシーがこの劇場である。実際に私はこの劇場があったことによって歌舞伎と出会い、細々とした顧客ではあるが、仮にも上方歌舞伎に金を落とす客の一人へと成長させてもらえたのである。この劇場空間と、上階のお稽古場が、どれほど上方の演劇に寄与してきたかは計り知れないものがある。

松竹座客席

 永山武臣翁をはじめとした先人たちの活動によって、上方の歌舞伎役者も増え、歌舞伎も、松竹新喜劇も、OSK日本歌劇団も、毎年この松竹座で定期的に興行することがかなうようになった。それをいつのまにか当たり前のように思っていた。地道で諦めることを知らない人々の活動の結果だったのに、ただその成果をうきうきと楽しんできた。
 これら先人の努力がやっと結実しはじめたこの時期に、彼らが夢を託した私たち世代が、芝居まち道頓堀の歴史を途絶えさせることになったのは痛恨の極みである。どう顔向けができようか。松竹座を残したかった。それは嘘偽りない心からの気持ちです。

 しかし、解体が決まった以上、道頓堀に同規模の劇場を作ることは不可能だと思う。個人的には道頓堀にはこだわらず、ともかく歌舞伎用の劇場を大阪に作っていただきたいという気持ちが強いのだが、大阪市長の発言を見ると道頓堀にこだわりがあるらしく不安を感じている。道頓堀にどでかい劇場を作れるなら夢があるが、松竹座とは似ても似つかない小さな、システマティックな劇場しか作れないのではないか。道頓堀以外の選択肢を持ってほしいと切実に思っている。

 なんにせよ、先人たちは十分すぎるほどの恩恵を私たちの世代にもたらしてくれた。細々とでも、彼らがともしてくれた明かりを、次代につなげていきたい所存である。
 この夏も、上方歌舞伎の役者たちによる会が予定されており、本興行にくらべてお手軽な値段でご観劇いただけるので、ぜひとも足をお運びいただきたい。

 

   かへる山 ありとはきけど 春霞 立ち別れなば こひしかるべし

 

ameblo.jp

www.ntj.jac.go.jp

戯曲かくあるべし ―カレル・チャペック作『白い病』感想―

「白い病」カレル・チャペック作 阿部賢一訳、2020、岩波書店

https://amzn.to/3PfH5UA

 

 これは、カレル・チャペック作「白い病」の感想文である。同時にこれを、憲法9条を否定し、戦争放棄を「お花畑」思考と冷笑した『ミュージカル 刀剣乱舞』に対する私の返歌としたい。

 阿部賢一氏は新型コロナウイルス感染拡大の非常事態宣言下で本作品の訳出を開始し、刊行時は本作品内のパンデミックの描写と現実世界の状況がリンクしたことが意識されたと思う。しかし刊行から6年、現在の状況は「今日か明日にも、国民から愛される英雄、独裁者、偉大な総司令官である元帥が野心的な国民のために作り上げた立派な軍隊で宣戦布告をすることなく攻撃を開始する(p.162)」戦時状況という意味で、「白い病」と同じ時代となった。「白い病」で起こることは、今、この世界のいろんな国々で起こりつつある出来事であり、なによりこの日本の状況にあまりにも合致する点が多い。今この作品を読むこと、ナチスドイツによる祖国解体直前のカレル・チャペックの思想に触れることの意味はあまりに大きい。

今日、平和を口にするのは扇動罪だ! どんな権利があって、世界中が武装解除するよう頼めるっていうんだ!(p.83)

 祖国の栄光のため戦争へと突き進む独裁者・元帥が統治するこの架空の国では、戦争に対して様々な反応をする国民たちがいる。
 職や地位を守るため、金のために積極的に戦争に賛成する人。特に反対する理由がないから賛成する人。賛成はしていないが、積極的に反対もしない人。
 そしてここに、恒久の平和、あらゆる生命を守ることを使命と信じ、極端な手段を講じる一人の医師、ガレーン博士が登場する。

 ガレーン博士の登場までは、この国に目立った反戦運動は存在しない。なぜか? 実は、この独裁者たる元帥がなかなか魅力的な人物なのである。勇気があって、行動力と決断力がある。時に情に厚く、時に理性的だ。彼に票を入れ、絶大な権力を握らせた民衆の気持ちも分からなくはない。このように絶大な支持を集める独裁者に抗することは、あまりに難しい。
 しかし、疫病を恐れる人々によって各地で反戦運動が起こり始める。そうすると、今度はそれに抗するために、元帥支持者たちの愛国心も高まっていくのである。疫病の蔓延は戦争を望む元帥にとっても好都合だ。疫病によって敵国の力も弱まるからである。元帥は民衆を戦争へと駆り立てる。「戦争万歳!」と叫ぶ熱狂した民衆。この熱狂した民衆が暴走をはじめると、彼らを扇動してきた独裁者自身にも、もうコントロールはできなくなる。

 カレル・チャペックが描きたかったのは、戦争に熱狂した者だけでなく、戦争にふわっと加担した者、戦争を無視していた者、これら全ての民衆の積極的、消極的関与が、このコントロール不能の熱狂を生み出していくさまであり、全ての民衆にこの破滅的結末の責任があるということではないか。

平和を築く。我が国民が初めてだ――たしかに、長い仕事になるだろう、だが、私が生きている間は(p.151)

 この作品は悲劇的な結末を迎える。恒久的な平和は永遠に手に入らないのかもしれない。しかし、冷笑主義者が永遠になし得ないこと、彼らには永久に手の届かないものに、人道主義はずっと到達し続けてきた。それは歴史が証明している。
 現実路線から憲法9条を非難する者も、憲法9条の理念そのものを冷笑することは許されないのである。その姿勢が何を産むのか、破滅と悲劇だけだ。

戦後の人々の典型的な特徴の一つは、しばしば侮蔑とともに用いられる、「人間愛(フマニタ)」と呼ばれるものから距離を置くようになったことである。(p.156-157)

 演劇が芸術たり得るのは、人間への愛に基づいているからではないか。人間の肉体を使って表現する以上、人間を無視して作ることはできないはずである。ていねいに人間の悲哀、苦しみ、そして人間への希望までを書ききったこの「白い病」は戯曲の歴史に燦然と輝く金字塔である。

 

〇「白い病」にはヨーロッパ中心主義の思想が現れており、現在日本の読者には引っかかる部分ではある。当時のチェコスロバキアの状況を鑑みると致し方ない部分もあるが、一つの瑕瑾ではある。
〇「白い病」の架空の国では、うらやましいことに報道機関が機能している。今日の日本で報道機関はガレーン博士の会見を報じるだろうか? 元記者のカレル・チャペック、やや軽薄そうな記者を登場させていても、報道が犯してはならない一線は守らせる矜持。
〇阿部賢一氏の訳がめちゃくちゃ読みやすい。元が外国文学とは分からないほどなめらかな会話調。手に取りやすさ(価格)も含めて、オススメの版である。

 

tsubana.hatenablog.com

2025年12月から上演されたミュージカル刀剣乱舞は、平和主義を否定していた

 2025年12月14日から2026年3月1日まで上演されたミュージカル『刀剣乱舞』~静かなる夜半の寝覚め~を見て、ショックを受けた。ガザの虐殺される人々を目撃し、領土割譲の和解案を突き付けられているウクライナの苦難を見ながら作った作品がこれなのか。この苦難の時代において、この作品が世に発したメッセージは、平和主義の否定だった。

 平和というのは簡単に手に入るものではない。そこは全く否定しない。しかし、だからこそ、たくさんの人々が血を流し、暴力を受けながらも踏みとどまり、歯を食いしばって築き上げてきたのが、現在の国際社会の形、平和主義を前提にした国際政治の形ではないか。たしかに今、それがふたたび揺るがされようとしている。しかし、平和主義を前提にせずに、人類に栄える道なんてあるのか? 平和主義という前提をなくして、いったいどんな社会的合意の上に国際社会を築くのだろう。そういった答えは出さずに、この作品は平和主義を完全に否定している。平和主義を一炊の夢、お花畑の思考だと断罪する。

 たとえ全く同じ筋書き、同じ結末でも、つまり兵を持たない非戦主義の町がなすすべなく焼き尽くされても、観客に問いを投げかける作りだったなら、私は「いい作品だった」と満足して帰っただろう。非戦国家は踏み荒らされる。平和主義はお花畑思考なのか? 戦はなくならないのか。これを観客にずっと考え続けてほしいテーマとするならば、きっと名作になっただろう。しかし、作品は明確に、安易に結論を出していた。戦のない国を作るという誓いは「呪い」であり、平和主義を希求するリーダーは無能だという結論、そして、「兵を持たない国なんて、どの時代にも存在しない」と登場人物に言わせていた。そこには明確な主張がある。憲法9条の否定だ。この作品の立場は、争いを前提とした世界の中の憲法9条否定であり、世界平和を希求しながら憲法9条を否定する意見とは全く一線を画す(憲法9条を排しても、平和主義に基づく憲法は策定可能である。フランス共和国憲法を見よ)。
 平和主義を全く排除した先に何があるか。トランプの言うところの”力による平和”である。国力だけがモノを言う世界。理由をつけてウクライナやベネズエラ、イランなど他国に軍事力を送り込み、簡単に開戦できる時代。要求を通すことのできる力を持つ国のリーダーだけが世界のルールを策定でき、他国の主権を侵せる世界。その世界で、日本にモノを言わせられるだけの国力が残っているだろうか。そして、その国力を持っていたとして、そんな社会でそれを世界のために正しく行使できようか。

 今までもミュージカル刀剣乱舞には危なっかしい表現が多かった。以前も一度エントリを書いたことがある。他にもパライソなど、問題作はある。しかし、今回の作品は特に、この時代にこれを広く民衆に問おうと思った、その気持ちが分からない。この苦難の時代にこの作品を発表して、世に何を訴えたかったのか? 単純にディストピアを表現したかったとは思えない。非戦を断罪する主張が強すぎる。やはり平和主義を完全に否定したかったのだと私は思う。皆さんはどう思いますか。この作品は何を言おうとしていたのですか。
 この作品はぜひ、多くの批評を受けるべきだと思う。このミュージカルを御覧になられた皆さんにはぜひとも、この作品を批評していただきたい。私と同じ立場に立って批評してほしいという意味ではない。様々な賛否によって、この作品の立ち位置が決まると思うからだ。

 

(ちなみにですが、私は護憲派です。念のため立場を明確にしておきます。)

久しぶりにJupiterを見た(キンプリコラボで)

 わたしは765Pで、「アイドルマスター2」の発表をリアルタイムで(現場には行ってないけどネットで)体験した世代です。
 Jupiterが好きでした…!!

 アイマス2の発表でJupiter最初のデモを見た瞬間、本当に震えるくらい感動して、一瞬で好きになりました。
 でも、ご存じの通り、当時はそんなことは口が裂けても言えないような雰囲気でした。りっちゃんがPになる上に、竜宮小町はプロデュース不可で実質アイドル減、新しいアイドルが男性という状況だったので、(執拗なバッシングをする奴らは論外として、)がっかりしたPたちの気持ち、そして女性の中に男性を混ぜるな!! という気持ちは、逆の立場としてわかります(男性集団に女性を混ぜないでほしい)。
 同時に、Jupiterの開発に運営がかなり情熱を注いでいたのも感じていました。運営がJupiterを自信をもって送り出したに違いないと思っていました。
 最初のものすごい拒否反応は2発売の後だんだん薄れていきましたが、歓迎されていたわけでもないので、その後のJupiterの扱いには慎重を要しました。一ファンとしての私も慎重でした。というか、極力言及しないようにしていた。Jupiter好きだけど、好きって言うことが怖い。その状態で好きでいるのはしんどい。そして結局、疲れてしまった。私はこの時点でJupiterをあきらめてしまったんだと思います。
 ところが、運営はあきらめてなかった。Jupiterの露出を増やすことはしなかったけれど、アイドルマスターのアニメでもJupiter側の物語も結構ていねいに描いてくれたりして。うれしかったなあ。でもやっぱり私は引き続き、あんまりJupiterの話はしないようにしていました。しんどいから……。アニメのJupiter描写はかなり評判が良かったように思いました。ゲームよりリーチする層も幅広かったし。運営も多分そう思ったと思います。アニメの勢いのままシャイニーフェスタでの出番、少女誌でのコミカライズが続きましたが(そしてそこでもやっぱり一部反発はあった)、そのあとはしばらく虚無の時期が続きます。更新されない961プロのページにアクセスしたり、「Alice or Guilty」を聞いたりしていた。

 そして、ついにアイドルマスターSideMがリリースされます。当然プレイしました。でも……、なんか、自分にはこのゲームをプレイする資格がないなと思ったりした。あきらめた人間が、沈黙という形でJupiterのバッシングと虚無の時代に加担した人間が、Jupiterをプロデュースとかおこがましくない? それでもなんとかしがみつこうとしていた時期もあったけど、結局足が遠のき、315Pではなくなりました。
 その後も、運営はどのタイミングで女の子アイドルたちとMマスを混ぜていいのか、慎重に見極めようとして、くっつけたり離したりを繰り返し、なんて根気強いんだと思った。早々にあきらめた私と全然違う。すごい粘度。そのたびに胸が痛む。ことばにできない。意識的に避けていたわけじゃないけど、無意識のうちに315プロを避けていたのかもしれない、かなり長い間、私はJupiterを見ていなかった。

 今回、キンプリと315プロがコラボするということで、315Pさんが勧めてくれたライブの映像を見ました。

asobichannel.asobistore.jp


 Jupiterがあの時の衣装をちょっと彷彿とさせる衣装を着て、「Alice or Guilty」と低音部が似たアレンジの曲を歌っていた。あの時のままではない、でもあの時の歴史をなかったことにはせずに歌っていた。「理由あって、アイドル!」てことばがはじめてストン、と心に落ちた。すごいキャッチコピーだ。この作品コンセプトの根本には、やっぱりJupiterがあったんだなって思った。

 そして今日、大スクリーンでJupiterを見た。はじめて、Jupiterにペンライトを振った。あえてアイマスのレギュにしたがったペンラを持って行った。十五年は一昔。十五年前にあきらめたこと、Jupiterを応援するってことを、やった。
 めちゃくちゃ、かっこよかった……! 膝をつくほどかっこいい! もう圧倒的すぎる……! 大好きだったJupiterが、大好きだったJupiter以上のJupiterになって、そこにいた。この感情は本当にことばにできない。キンプリコラボがなければ、きっと一生無意識のうちに避けて暮らして、このJupiterを見ることはかなわなかった。見られてよかった。見られたことで、一歩進めた気がした。

 私はJupiterの「ファン」にさえなれなかった。これを言うのはおこがましいと思うけど、やっぱりそのことをずっと後悔していたんだなと思った。好きなままでいられないと、あの時は思った。くやしい。でもあの日にもう一度戻ったとしても、私は「Jupiterすごい! めちゃいい!」と、一回ツイートして、その後消したあの行為を繰り返すと思う。だがあの頃の私に泣かないでと伝えたい。気を強く持て。未来の君は、新しいJupiterを見ることができるぞ。それから、961プロにも新しいアイドルが入るので、辞めたはずのJupiterがずっと載っていたあのHPも更新される日が来るよってこともついでに教えてあげたい。そして辞めたはずのJupiterが、961のアーカイブとして残り続けていることも。大好きな961プロのJupiterはなかったことにはならなかった。だって運営(と黒井社長)は最初から自信満々だったでしょ。わたしが諦めても、運営は諦めないし、Pは諦めないし、新しいPが道を作っていってくれる。そして黒井社長、まだJupiterに心を残しているのか。心残りがあるのか?

 Jupiterを諦めないでくれた運営にありがとうと言いたい。そして作品と真摯に向き合い、アイドルマスターというコンテンツを嫌いにならず、キャラクターを愛してくれた寺島くん、神原くん、松岡くん、本当に、本当にありがとう。そして、この未来へ連れてきてくれた315Pのみなさん、本当にありがとう。
 そして私にこの機会を与えてくれた仁科カヅキにありがとう。あなたは壊してしまった絆をつなぎあわせることにかけては本当に天才的です。一生追いかけさせてください。

初夏の有島記念館へ行ってきた!

 有島武郎の作品を大人になるまで読んだことがなかった私だが、「カインの末裔」を軽い気持ちで読んで感動してから、いつか行ってみたいなあ、と思い続けていたのがニセコの「有島記念館」である。かつて有島武郎が所有していた有島農場があった地に立つ、有島武郎の記念館。「カインの末裔」の舞台でもある。でも正直遠いので、いつかは行きたいけど……今はまだいいか…みたいな気持ちだった。ところが、その有島記念館が、私が「カインの末裔」を読んだきっかけでもあるゲーム「文豪とアルケミスト」とコラボするとの情報が入り! これを逃してはならないと思って、ついにニセコの地へ降り立つ決心がついたのだった。

 6月中旬。小樽駅前のバスターミナルからニセコバスに乗る。発車時刻は7時40分。現在時刻は7時過ぎ。まだ余裕がある。ここからニセコまでほぼ2時間ノンストップでバスに乗るので、できればトイレに行っておきたい。と思って後ろを見たら、すぐ目の前にトイレがあった。長距離バスのバス停前にトイレがある。なんて機能的なんだろう。レイアウトを考えた人、仕事ができすぎる。

小樽駅

 やがてぽつぽつと同じバスに乗るお客さんが集まってくる。4.5人の人が小樽から乗車した。市内を循環するバスとは違って、観光バス型のバスだ。長距離バスに乗るって気分が高まってきた。

 バスは小樽市中央部を抜け、沿岸部オタモイの方へ向かう。オタモイも観光したかったのだが、時間が足りなくて行けなかったので、車窓からだけでも景色を見ることができてとてもうれしかった。乗客は一人、二人と降りていき、小樽市を抜ける頃には乗客は私一人になってしまった。私一人のために車内放送をしてくれる運転手さん……。ありがとう……。途中うとうとしたりもしながら、北海道の風景を車窓から楽しむ。北海道の道端には、オオイタドリとフキがよく自生していた。季節は初夏。元気にわさわさ生い茂るフキをみながら、こういったフキの下にコロポックルがいるのだろうか、などと考えたりした。畑のほとりにはルピナス(多分)がたくさん咲いていた。ちょうど花の盛りで、いろとりどりの小さな花がすっと立つ姿がかわいらしい。

オオイタドリとフキ
ルピナス

 やがてバスが俱知安に近づいてくると、羊蹄山が姿を現した。あまりに美しく、大きな山である。狩太(ニセコ)を書いた有島武郎作品にも頻出するその姿を見られてうれしい。さらに倶知安駅前でお客さんが乗ってきてくれて、客が2人になった。これも地味にうれしい。

羊蹄山


 バス停「ニセコハイツ」で降りる。事前にグーグルマップと首っ引きでルートを確認したところ、ここで降りるのが一番近いと判断した。しかし、高速ニセコ号は「ニセコハイツ」に止まらないので注意が必要。
 ここから15分ほど歩く。田舎の車道はたまに歩行者用のサイドウォークがない時があるのでちょっと警戒していたのだが、割とずっと歩道があって安心して歩ける。ジョギングしている人とも3人すれ違った。車の数は多すぎず、少なすぎず。人ともすれ違う。かなり安心度の高い道でした。振り返ると羊蹄山、右手にはニセコアンヌプリを眺めながら、美しい初夏の北海道を歩く。おだやかな季節。道端には相変わらずオオイタドリとフキ、そしてルピナスの群生。やがて「有島記念館」の緋色の看板が見えてきた。

有島記念館への道入り口と羊蹄山



 有島記念館は、ニセコ町が整備した有島記念公園の中にあった。赤レンガの敷かれた歩道と、青々としげった芝生、川から水を引いた水路の先に、有島武郎の像が立っている。銅像の武郎は、私が思う有島武郎(晩年)より少し若めに見えた。広場の中核たる有島記念館は、高い塔を持ったレンガ造り&コンクリート(?)の建物に蔦が絡まる、かわいらしいデザインだ。どこかおとぎ話めいた雰囲気を持ちながら、懐かしい気持ちにもなる、不思議な魅力を持っている。

 



 有島武郎についての展示スペースは、入り口入って右側である。彼の誕生から自裁まで、そして有島農場の歴史についての展示が見られる。有島の生涯の展示の切り口は、新潮社の日本文学アルバムと似ていたように思った。ただし、有島の自筆の手紙、原稿などの展示(現物・再現含む)をふんだんに使った展示はやはり見ごたえがある。有島武郎って本当に字がきれい。なんというか教科書的な生真面目な字で、くずし字もがんばったら読めるんじゃないかという気がする(まあ、でも基本知識がないので読めない)。日記、手紙、写真などを通して、彼の積み上げてきたものの一端を、時間に沿って見ていくことができる。こうやって彼の人生を俯瞰してみても、彼の死はあまりにも突然で、彼の誠実な生き方との連続性が見いだせない。有島の作品を愛していた人ほど、その死を受け入れられなかっただろうということは、なんとなくこの展示で理解することができた。
 農場の歴史展示は、その誕生から有島による解放、さらにGHQ方針によって解散させられるまでをコンパクトに解説されていた。農場事務所の復元模型なども興味深い。掘っ立て小屋のような家に住んでいる小作人たちが、有島武郎が滞在時に使えるようにわざわざ増築したという、農場にただ一棟だけあった立派な建物、有島の良心を非常に痛めていたあの事務所である。解説から目を上げ、窓から外を見れば、当時有島の所有物だった有島農場の土地の、今現在の姿が目の前に広がっている。このロケーションは何物にも代えがたい。

 有島武郎の展示室は天井が高いので、レンガ壁の落ち着いた色合いと抑えられた照明の割に開放感がある。それは突き抜けた開放感ではなく、どこか湿っぽい、おだやかな空間だ。この雰囲気が、なんだかすごく有島武郎の作品とマッチしている感じがする。ともかく居心地のいい展示室なので、ゆっくりと過ごせた。

 展示室を出て、残りの部屋を見ていこうと思ったのだが、外の景色があまりに美しいので、私はいったん外へ出て、先に周辺を散策することにした。

有島謝恩会館


 館を出てすぐにあるのが「有島謝恩会館」。1963年に建てられた旧有島記念館(農場事務所焼失後の二代目)の二階部分を移築したものだそうだ(有島記念館の展示情報による)。その外観を見学しながら、美しい有島記念公園を横切って、まずは農場開放記念碑を目指す。距離はおよそ500mほど。近景には畑や民家、遠景は右手に羊蹄山、左手にニセコアンヌプリという素晴らしい風景を眺めながらゆっくりと向かう。
 農場開放記念碑は建立式の時の写真が残っており、皆が碑の周りに集まって記念写真を撮っているのだが、今では碑のまわりにわさわさと木々が茂っており、近づくことはなかなか難しそうだったので、遠くから眺めるにとどめる。有島が用意した文章が共産的であるということで、文章のない、シンプルなものになったそうだ。碑文は有島生馬。



 碑の隣の小さな丘に建っているのが、弥照神社。ここはあの、有島武郎小作人たちを集めて、農場開放を宣言した場所である。しかし想像していたより狭い。今より社殿の大きさが小さかったのかもしれないが、それでも結構狭いなと思う。昔の人って、今よりパーソナルスペースが狭いのかな。

 また記念館の方へ歩いていく。有島記念公園の端に位置するのが、吉川銀之丞顕彰碑である。有島農場の最初期に入植し、解放後、有島武郎死後にも長きにわたって有島農場(狩太共生農団)のために尽くした農場管理人である。有島は吉川銀之丞や森本厚吉など、協力者にも恵まれていたと思う。そして有島亡き後、狩太共生農団を継続してきた有島謝恩会の人々の努力にも。有島は、農場が再び大資本家の手に落ちることを懸念し、なかば諦めていたが、そうはならなかった。人の入れ替わりは激しかったようだが、終焉まで共生農団の形は維持された。この結果を見てほしかったと思う。あなたの諦観は間違っていたと。なぜ長生きしてくれなかったのか。

 再度、有島記念館に入り、今度は向って左側へ進む。外の光が差し込む明るいロビーにはアート作品の展示と販売がされていた。ミュージアムショップもある(受付併設)。さらに進むと右側に藤倉英幸常設展示室、左側にブックカフェがある。有島記念館なのに、藤倉英幸常設展示室があるんだ! と思ったが、ニセコ町立の博物館施設がここしかないので、ここに博物館的機能が集約されているのかなと思う。有島展示室の入り口にも、非常にミニ展示ではあるが、ニセコで発掘された旧石器時代の石器の展示などがあった。有島記念館は、ニセコ駅前のニセコ鉄道遺産群も管理されているようなので、本当に小さいながらも総合博物館施設である。

 藤倉英幸展示室では、私が行ったときは常設展示室開設記念展の後半で、北海道の風景をテーマにした彼の作品の数々が展示がされていた。藤倉英幸氏を実は全然知らなかったのだが、独特のあたたか味のある、素敵な作品だった。はり絵の制作方法についての解説展示もあって、すごく大変な作業なんだなあ、と見ていて面白かった。

 最後にブックカフェ。コーヒー屋さんが運営されているようなのでコーヒー飲もうかなとも思ったのだが、若干暑い日だったので、カフェアフォガードを注文。本は有島武郎の作品はもちろん、白樺派関連のもの、北海道関連のもの、そして有島武郎生れ出づる悩み」のモデルとなった木田金次郎の画集などなどがあり、これらを自由に読むことができる。ニセコ雄大な風景を眺めながらの読書、あまりに贅沢空間である。最高だった。

 帰りは「有島記念館前」から倶知安駅までのバスに乗る。倶知安駅で電車待ちの時間が約1時間あったので、駅近くのスーパー「LUCKY」でパック寿司を買い、それを駅の待合室で食べることにした。値段は忘れてしまったが、かなり安かった。そして、この寿司を食って、まじで飛び上がった。めっちゃくちゃうまい。パック寿司のクオリティじゃない。北海道の寿司って、パック寿司でもこんなにおいしいんだ……! 電車の時間が来たので、ホームへと移動。倶知安駅は絶賛工事中だった。

 途中までのんびりとした函館本線の旅を楽しんでいたのだが、余市駅で大量の乗客が乗ってきた。みなさん観光客みたい? 余市ってそんなに人気観光地だったんだね……。やがて小樽駅に電車は到着。こうしてニセコへの旅は終わったのだった。

 ニセコ駅前のニセコ鉄道遺産群は見に行けなかったなあ、とか心残りもあるので、またいつか行きたいと思う。まあでも、遠いので、またいつか……。