雪組公演『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』『FROZEN HOLIDAY』

 雪組公演『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』『FROZEN HOLIDAY』、度重なる休演のあとのラスト2日、公演される日にたまたまチケットが取れていたため見ることが叶った。
 有愛きいさんの自死があり、揺れに揺れた宝塚。コロナ禍で見て感動した『シャーロック・ホームズ』がいじめの舞台になっていたこと、有愛さんのプロフに新人公演で演じられたメアリー役を「好きだった役」として挙げられていることなどを知り、たまらない思いになる。
 雪組も体調不良者が出るなどして、心身ともに大変な状態での上演であることが分かっていたし、ただあっけらかんと作品を楽しむ気持ちにはなれなかったことは仕方がないかと思う。私は宝塚はファンと言えるほどの熱心な観客ではなく、しかしシャーロック・ホームズのファンであり、『シャーロック・ホームズ』の生田大和さんの作ったこのお芝居がどうしても見たかった。

 生田大和さんが『シャーロック・ホームズ』後から熱く語っていたという、コナン・ドイルを主役とした念願の作品。史実を下敷きにした部分が多いため、すごく盛り上がる作品というわけでもなかったが、決して順風満帆とは言えないコナン・ドイルの人生をもとに、苦しいこと、悲しいこと、思い通りにいかないことがあっても、ひたむきに、実直に人生を生き抜くコナン・ドイル像を描いて良作だった。彩風さんの演技力で愛嬌と実直さを兼ね揃えたコナン・ドイルの姿が浮き彫りになり素晴らしい。後妻ジーンは出てこないにしても、ルイーザは亡くなると思っていたので、まさかの奇跡によりアーサー・コナン・ドイルとルイーザの幸せな後生が描かれて、これはもしかしてコナン・ドイルの想像力が生み出した理想の世界なのだろうか…、とかハッピーエンドの中にも謎を残す展開、考えさせられる結末でそこも面白かった。
 ホームズ好きとしては、コナン・ドイルとホームズの関係を対立としてしかとらえない作品が多い中、その和解までを描いてくれたところが、さすがシャーロキアン生田大和といったところで拍手喝采である。コナン・ドイルを「ワトソン君」と呼び、最後には「僕は君自身なのだから」というシャーロック・ホームズ
 苦しい人生を、最後まで他責思考にならず、実直に生き抜くコナン・ドイル。良い作品だった。今宝塚大劇場で掛かっている芝居がこれだったのは良かったと思う。
 『フローズンホリデイ』は雪組100周年に向けた、祝祭的なスペクタキュラー。ひたすら楽しい。しかしこのひたすら楽しい気持ちにぐいぐいと乗っかっていくことができない自分がいてややつらかった。和希そらさんが本公演で退団されるので、スポットライトが当たる場面が多い。華もあり、歌唱力もずば抜けていて、人気があるのもよくわかるスターさんだった。目まぐるしく動いていく、息もつかせぬ展開は素晴らしくてよかった。ただ、ラインダンス前の大きな鏡の前でみなさんが円になって寝転がって手足を上げ下げして集団で演技されるシーン。衣装がつるっとした素材だったこともあり、なんか巨大な一つの生物のように見えて、正直怖かった。S席だったら一人一人の人間の顔がはっきり見えるだろうと思うのでそこまでじゃないんだろうけど、A席からだと、ひとつの集合体がうごうご動いてるようにみえてちょっと気持ち悪かったんですよね…。若干集合体恐怖症を引き起こした…。なんかあんまり生徒さん一人一人の魅力も感じられない場面だしなんのためにやっているんだろう、て思ってしまいました…。あとから考えるとあれは雪の結晶をあらわしていたのかな? て思うんだけど、なんか私はやっぱり舞台の装置としてより、個々の出演者の技術を見たいと思うので、いらない場面だったかなと思う。ラインダンスは団体技とは言え、個人個人の技量の上に積み重なった精緻な技術だと思うのでいいんですけど、あの手足の上げ下げはそこまで個々の技術のすごみとか感じないし……。

 私は数年に一度程度しか宝塚大劇場を訪れない、超ライト観客層です。宝塚の売り上げに全然貢献していないし、ファンとは言えないと思います。それでも宝塚にたいして、憧れのようなものを抱いていた層ではあります。昨日劇場に行って、この美しい劇場に入るたびに感じていたワクワクを全然感じられなくなっている自分に気づきました。舞台の裏側を知ってしまうと夢の世界に入り込めなくなるというのは本当にそうだと思う。でもそれでも私はその一端を知ることが出来て良かったと思う。自分の無邪気さが時に人を追い詰めるということに向き合いたいと思った。『ボイルド・ドイル・オンザ・トイル・トレイル』はそういうお話だと思う。私は後の世のファンだから、シャーロック・ホームズをある種客観的に愛することが出来る。でも同時代にコナン・ドイルが生きていたら? 私は彼を苦しめずにファン活動ができたかしら? それを自問しました。舞台の裏側を知った以上、愛情の対象を出来るだけ追い詰めずに愛せるようにしたい。宝塚の生徒さんたちが、ただひたむきに芸と向き合えるように、宝塚歌劇団には改革を求めたいと思います。今後しばらく宝塚の切符を買うことはないでしょう。大劇場にしばしの別れを告げてきました。また会えるよう、舞台上のスターたちになんの屈託もなく笑顔を向けられる日が来ることを心から願っています。

 

忠義にならでは捨てぬ命、ー「新作歌舞伎 刀剣乱舞『月刀剣縁桐』」感想ー

 新作歌舞伎『刀剣乱舞』のコンセプトは「もし江戸時代(歌舞伎のつくられた時代)に刀剣乱舞があったなら、当時の人はどういう歌舞伎にしただろうか」というものだそうで、基本的に歌舞伎の価値観で解釈しなおした『刀剣乱舞』だったと思う。その結果、多くの時代物の歌舞伎と同じく、「歌舞伎刀剣乱舞」のテーマは「忠義」であった。と同時にその「『忠義』よりも重いもの」こそが真のテーマであったとも思う。

 歌舞伎の世界では忠義は重い。めちゃくちゃ重い。 〽恋と忠義はいずれが重い  なんて申しますけれど、実際忠義のほうが重い。『仮名手本忠臣蔵』でも由良之助が言うておる。「四十余人の者どもは、親に別れ子に離れ、一生連れ添ふ女房を君傾城の勤めをさするも、亡君の仇を報じたさ。」つまり親子の情より、愛する妻より、忠義に殉ずる方が大事なんである。忠義のために自分の妻子を殺す話も歌舞伎には割とよくある。そのくらい忠義は重いのである。

 歌舞伎「刀剣乱舞」で最初に忠義が重いな、と思ったのは、はじめて会った義輝に「家臣になれ」と言われた三日月が、「家臣にはなれない」と断るシーン。他のメディアミックスの「刀剣乱舞」だと刀剣男士は割とその時代の主君に仕えたりするし、ゲームでも「修行」に行った先で元の主に仕えているように見える描写も結構あるが、歌舞伎本丸の刀剣男士たちは頑として義輝には仕えない。刀剣男士は歴史を守るために、義輝を歴史通りに死なせなくてはならない。死ななくてすむ道を義輝に示すことができない。忠義は情だけでは果たせないものである。何があっても主君を守らねばならぬのに、そのための諫言すらできない刀剣男士は義輝の家臣にはなれない。
 もう一つの仕官を断る理由は、「忠臣、二君に仕えず」で、すでに審神者に仕えている彼らは他に主を持たない。この時代に審神者がいない、とかは関係ない。『仮名手本忠臣蔵』を見れば分かるように、たとえ主君が亡くなり、御家がお取り潰しになろうとも、亡君の恩に報じるのが歌舞伎の価値観だ。ここで義輝は三日月の「前の主」じゃないのか、彼はすでに二君に仕えてるんじゃないのか、という思いが脳裏をよぎったが、三日月が義輝にお仕えすることはできないが、「おそばでお見守り入ることなれば」できる、と言ったことで私としては腑に落ちた。刀であった時代の三日月は義輝に大事にされていたが、モノであった三日月はその「恩」に報じることができず、ただ義輝を見守ることしかできなかったんではないか。それはやはり、歌舞伎の価値観としては正しい主従関係とは言えない。刀としての三日月は、義輝に仕えたかったかもしれないが、真の意味では仕えることができなかった。そう考えると、二回目に義輝に「家臣になれ」と言われた三日月が無言であったことにも重さを感じる。仕えたかったが、仕えられなかった義輝に、再三「家臣になれ」と求められる三日月の思いは、ちょっとことばにはしがたいのではないか。

 このように前半で忠義の重さを存分に描いたうえで、後半では忠義の人、松永弾正が謀反を起こすまでを描くのである。忠義の重さを描いてきたからこそ、謀反を勧める久直が思いつめる様子も説得力が増す。忠義の人、松永弾正がそう簡単に義輝を討つことに同意するはずがないのだ。しかし久直は「正しい歴史を守るため」にそれが必要であることを納得するし、松永弾正も久直の死を賭した説得に応じ、義輝を討つことを決めるのだ。正しい歴史を守るため、もっと言うと後の世の人々のため、「公共の福祉」というとちょっと違う感じがするが、ともかく忠義という個人間の契約よりももっとパブリックなもののために、非常に重い「忠義」を捨てた。これはちょっと新しいなと思った(歌舞伎としては)。そして「忠義」の重さをじっくりと書いているからこそ、この新しく提示された「公共」の重さのすごみが増す。

 このように表現としては新しいな、とも思うんだけど、それでもやっぱり、これは歌舞伎のいつもの趣向だな、とも思う。歌舞伎が「忠義」を書く時、本当に忠義そのものを書いているだろうか。
 江戸幕府のもと、歌舞伎は取り締まりから逃れるために、忠義の重さをことさら強調しなければならなかった。忠義よりも恋とか、愛とかを選ぶヤツは、歌舞伎の中では破滅せねばならない。忠義より愛を取る人間に憧れる人が増えると、封建社会が維持できなくなるからだ。忠義に殉ずる人間は美しい。しかし、『熊谷陣屋』は、『寺子屋』は、ただ忠義を称揚するだけの物語だっただろうか。ままならぬこの世のことわり、忠義はなによりも重い、ということに押しつぶされる人々の悲哀を描くことで、反戦とか、愛とか、そういったものを実は称揚しようとしていたのではないか。そしてそういう作品の心が今の人間にも響くからこそ、これらの作品は今でも繰り返し上演されているのだと思う。

 はっきり言って、歌舞伎が後生大事に繰り返し書き続けている「忠義がなによりも重い」なんて価値観は時代遅れの死んだほうがいい価値観である。しかし、新作であるこの歌舞伎刀剣乱舞では、この時代遅れな価値観をしっかり書くことで、その上に置かれた「公共」という概念の重みが増した。こうやって、制約がある中で、時代を超えて普遍性を持つような物語を作っていくことこそが「伝統を守る」ってことなんじゃないか。古い技法を守り、古い価値観をも使いながら、そこに現代の価値観をそっと載せることで現代に生きる物語に仕上げていると思った。やっぱり松岡亮はハンパない。松岡亮が松竹にいてくれてよかった。

 そしてもう一つの新しい表現が「異界の翁、嫗」だ。このキャラクターは明らかに土蜘蛛である。あまりに蜘蛛のモチーフを多用しすぎだし、詞章にもそれらしきものが散りばめられている。三日月も「まつろわぬ民」「戦に傷ついた人々の怨念」である、と言っているので土蜘蛛でしかない。しかし作中では彼らを土蜘蛛だとは一言も言わない。
 土蜘蛛はそのものズバリ『土蜘』ていう演目が歌舞伎にもある(九月に歌舞伎座で上演されますよ!)。頼光とその手下が土蜘蛛を退治する、あの勧善懲悪物語である。土蜘蛛は歌舞伎の世界ではあまりに悪役のイメージが付きすぎている。だからあえて、今回その名前を出さなかったのではないか。異界の翁、嫗は今作でも悪役なのだけれど、ヒーローであるところの三日月は、最初から最後まで彼らに同情的なことを言い続けている。今回の歌舞伎「刀剣乱舞」は、ぱっと見の構造としてはいつも通りの単純な勧善懲悪の物語のフォーマットを使いながら、これは単純な勧善懲悪ではないですよ、という合図を常に出し続けていた。これもやっぱり、新しくて、同時に「伝統を守る」物語の作り方だなと思った。やっぱり松岡亮、タダモノではない。また新作を楽しみにしています。

 

☆めちゃ脚本家を褒めた後ですが、駄目だなって思うところもあった。刀剣乱舞のメディアミックスである以上、もう少し刀剣男士のほうにもスポットを当てたエピソードがほしかった。特に小狐丸はもうちょっと見せ場を作ってあげるべきだったかなと思う。けんけん自体はめちゃ見せ場あるので歌舞伎的にはOK! て感じなんですけど小狐丸ファンはがっかりするんじゃないかと思った。
 ただ、これは脚本の問題で、役者さんたちのキャラクターの解釈はすごくよかったと思う。特に吉太朗さんの膝丸の解釈は最高やな! て思ってるけど、これは贔屓目入っている可能性あるので……。

☆はじめて歌舞伎を見る人に中村梅玉を見せるってのは大正解! ですよね! 中村梅玉を嫌いな人はいないからね。この世には中村梅玉が好きな人間と、中村梅玉をまだ知らない人間しかいないからな(私見です)。

☆私は美吉屋贔屓で、吉太朗さんがこのような大きな役をしているのを見られて本当に感謝しかない。関係者の皆様に心よりお礼を申し上げます。特に松也丈!! 本当にありがとうございました!! もともと好きですけど、もっと好きになりました!

☆初日の配信を見ながら、「あかん、鷹之資が世界に見つかってしまう」て思った。もともと素晴らしい役者さんですけど、まだ一部の人にしかその素晴らしさが認識されてなかったと思う。今回は、ただいい役を当てられたというだけでなく、良い経験を積ませてあげたい、という松也丈の親心(?)的なものも感じて、鷹之資丈にとって、とても大切な作品になったのではないかと思います。

☆こ、この音楽何や~~~! とか、クライマックスで突如焚かれるスモークに「な、何がはじまるんや、松也と右近がデュエットでもするんか?」とか、歌舞伎ファンとしても新鮮な驚きがあり、楽しい舞台でした。とうらぶファンとしては、歌舞伎は刀剣男士たちの人間離れしたところ、付喪神感を大事にしている演出も多かったように思うので、刀剣男士のモノ感が好きな私は結構楽しかったです。

 

物を語る物語 ーミュージカル刀剣乱舞 「花影ゆれる砥水」感想断簡

 2015年から続いてきたシリーズ『ミュージカル刀剣乱舞』だが、今回の『花影ゆれる砥水』から本格的に脚本家が浅井さやか氏に変わり(おんすていじなどの外伝的な作品を除く)、前任の伊藤栄之進氏が作る世界観にファンも多かったことから、この新脚本に開幕初日から賛否両論だった。その評判を聞いて、私もかなり期待値を下げて観劇したのだが、結果としては大満足、すごく大好きな作品となった。ただし、今までの『ミュージカル刀剣乱舞』とは全く違う作品になってしまったという感覚はあるので、あの物語の続きを見たい、という期待には応えていないと思う。このような方向に舵をきることは、なかなか難しい選択だったと思う。私はこの選択を支持したい。今までと同じ世界観で作ろうとしても、模倣ではオリジナル以上のものは作れない。同じようなものを作ろうとして、逆に伊藤栄之進脚本の完成度との差異が浮き彫りになってしまう可能性もあるだろう。浅井さやか氏の「色」を出していくのは、今後も長く続く(だろう)シリーズをより良いものとするためには必要だったと思う。

 しかし私がここまで好意的なのは、今回の作品の方向性が個人的にとても好きだからという贔屓目が、正直ある。今作は、私が『刀剣乱舞』にここを掘り下げてほしいな~と思い続けていた部分を、がっつり正面から取り扱ってくれていたのだ。
 それは、「本質的にはモノである刀剣男士と、ヒトとの関係性」の問題である。
 私はやはり、モノとヒトとは、根本的に違うものだと思っている。モノとヒトとが、それぞれ全く違うものでありながら、違う前提に立ったままで心を通わす、ということにエモを感じる人種だ。だから、『刀剣乱舞』もどちらかというと刀剣男士の人外感に惹かれてプレイしていたのだが、『刀剣乱舞』も年月を重ねるごとに、どんどん刀剣男士が人間らしくなっていく描写が増えた。時の流れにエモを感じて、うれしい演出ではある。でも、やっぱりモノとヒトとは根本的に違うものだという片鱗を残していってほしいとずっと思っていた。

 ストレートプレイの『舞台 刀剣乱舞』で繰り返し言われることばに「物が語るゆえ物語」というのがある。『舞台 刀剣乱舞』はめちゃくちゃ面白い作品だが、私はこの言葉にだけは同意できなかった。物は在るだけで完成しており、物語がないと物を理解できないのは人間の方である。物に語らせるのはつねに人間の側である。

 今回の『花影ゆれる砥水』で、本阿弥光徳は幼いころに時間遡行軍の刀に出会い、その声を聞く。しかし、最後に彼は「昔、お刀様の声を聴いたと思ったが、それは自分自身の言葉だった」(セリフはうろ覚えですすみません)という意味のことを言う。彼は確かに時間遡行軍の声を聞いているのだけれど、同時にそれは自分自身の言葉だというのも真実であると思う。「人間はおろかで醜い」と思う彼の心が、時間遡行軍の声を拾うからである。

 桜は、風雨を疎んだりしないし、自分の花を惜しんだりもしない。しかし、もし桜に心が宿るのなら、その心は最初から、人が花を惜しむことを知っているだろう。風雨にさらされる桜をあわれむ人の心を思って、風雨にさらされたくはないと思うかもしれない。桜に心があるとして、その心と人の心の交流は、人同士の交流とは全く違うものになるはずだ。少なくともこの物語においては、モノの心は(もしかしたらヒトが使うために作ったモノの心は、という限定かもしれないが)ヒトの心を受け止め、投げ返すやわらかいものとして描かれていると思う。それは時間遡行軍や、一期一振影についても同じだ。モノは人の心を受け取って、それを素直に返してくれる。それはとても救われることだと私は思う。
 人が刀に向ける感情は、桜に向ける感情に比べて複雑だ。ある時は美術品として愛で、ある時は威信材として利用し、神宝としてうやまい、人を殺す道具として使い、ただの鉄塊として溶かそうとしたりもする。こんがらがった物語しかもたない刀は刀剣男士にはなれない。強い物語を持った刀だけが刀剣男士として顕現できる。一期一振が「一期一振」でなくなり、なんだか存在があいまいになってしまったのは、光徳が一期一振を選ばなかったからというより、光徳が一期一振に向ける感情が定まらなくなってしまったからだと思う。一期一振と極めなかったけれど、光悦の中ではこの刀こそが一期一振であり、その選択に後悔がなかったなら、一期一振は「一期一振影」という存在として、もう少し確固とした自我を持っていられたのではないだろうか。なぜなら、一期一振という刀は、在るだけで完成しており、物語がないと物を理解できないのは人間のほうだからである。

 

「問わず語り」

誰もいなくても 大地はそこにある
誰もいなくても 空はそこにある
誰もいなくても 風は吹き荒れる
でも誰かがいなくては 歌は生まれない

 

 浅井はるか氏が『ミュージカル刀剣乱舞 東京心覚』のために書いた「問わず語り」の歌詞。物語がなければ、人は物を理解できない。でも人がいるから、物語が生まれる。それはやっぱり、とても救いだと思う。少なくとも人間にとっては。

「新作歌舞伎 刀剣乱舞」追加発表俳優のご紹介!!

 「新作歌舞伎 刀剣乱舞」の主な配役が発表になりました!

 ちょっと時間が空いてしまったのですが、追加で発表になった役者さんについてご紹介させていただきたいと思います。

 

上村吉太朗(かみむらきちたろう)【美吉屋(みよしや)】
 岸和田の一般家庭出身。何度か子役として舞台に立ったのち、片岡我當の部屋子として上村吉弥の門下に入りました。
 美吉屋上方歌舞伎(京大坂で発展してきた歌舞伎、⇔江戸歌舞伎)のお家なので、吉太朗さんは主に関西の劇場で活躍中です。子役時代からあまりに演技がうまく、関西の歌舞伎ファンの間ではめちゃくちゃ有名でした。今まであまり東京の劇場で大きな役をやる機会がなかったのですが、現在公演中の「新作歌舞伎 ファイナルファンタジーⅩ」では、リュック役に抜擢されました! さらに「刀剣乱舞」でも膝丸という人気の役を得て、今「来てる」役者だと思います。立役、女方ともにこなしますが、個人的には吉太朗さんの立役の力強さが好きです。膝丸でもそういうところが生かされるといいな……。莟玉さんの品よく、美しくたおやかな髭切に、勇猛な膝丸。最高じゃないですか???(これは私の妄想なので、どういう源氏兄弟になるかは分かりませんが……)
 舞踊が上手すぎる役者。去年には「咲くやこの花賞」という大阪文化を担う若手文化人に贈られる賞を受賞。期待の若手です。どんどん話題にして、刀らぶファンの力でスターダムに押し上げてほしい……!(美吉屋贔屓としての私欲)

河合雪之丞(かわいゆきのじょう)【白兎屋(しらとや)】
 もともとは三代目市川猿之助(現・市川猿翁)の元で修行していた歌舞伎役者でした(旧芸名・市川春猿)。が、2017年に劇団新派(歌舞伎とは異なる新たな現代劇として明治時代に起こった演劇「新派」の劇団)に入団、名を河合雪之丞と改めました。
 歌舞伎役者時代には「ワンピース歌舞伎」でナミ役を演じるなど、一般家庭出身のいわゆる「お弟子さん」でありながら大役もこなす実力派でした。さらなる活躍を期待されていたのですが、師匠の猿翁さんがご病気で第一線から退かれたこともあり、思い切って新派へ入団を決意されたようです(猿翁さんとの関係が切れたわけではなく、円満での劇団移動です)。新派入団後も「滝の白糸」で主役を演じるなど、活躍を続けています。
 女方の役者さんで、立役もやったことがあるかもしれませんが私は拝見したことがありません。小烏丸はなんというか、あまり性別を感じない刀剣男士なので、ぴったりなんじゃないかと思います。

中村歌女之丞(なかむらかめのじょう)【成駒屋(なりこまや)】
 六代目中村歌右衛門中村梅玉の養父)の弟子。お弟子さんなので、脇を演じることが多い女方さんです。私はこの方の女房役が非常に好きで、相手役の役者さんに合わせて、時に重厚に、時にコミカルに演じ分け、舞台全体の説得力を格段に上げてくれる、素晴らしい役者さんです。

大谷桂三(おおたにけいぞう)【十字屋(じゅうじや)】
 二代目尾上松緑十四代守田勘弥という名優のもとで修業を積んだあと独立した、立役の役者さんです。いわゆる名バイプレーヤーとも言うべき存在で、血気盛んな武士から老け役まで、あらゆる役を的確に、抑えた演技で主役を引き立てます。尾上松也の叔父。

 

出演 及び 立師 の俳優
 公式ホームページにまだ配役が載っていませんが、ご本人のTwitterにて「新作歌舞伎 刀剣乱舞」への出演、および立師としての参加を公表された役者さんお二人を紹介します。立師とは、歌舞伎独特の殺陣である「立廻り」の動きをつける人のこと。立廻りは音楽に合わせて様式的な動きで行われ、舞踊的要素もあるため、実力あるいわゆる「お弟子さん」の俳優が立師となり、作品にそぐう立廻りを考案します。

澤村國矢(さわむらくにや)【紀伊国屋(きのくにや)】
 澤村藤十郎の弟子。尾上松也の自主公演『挑む』シリーズで数々の大きな役をこなした後、初音ミク出演の『超歌舞伎』の敵役で役者としての大きさを見せつけ、一気に知名度が上がった実力派俳優。押し出しのいい、立派な姿も魅力の役者さんです。今回は立師の仕事もあるのでメインの役柄ではないと思いますが、ぜひ注目いただきたい役者。

中村獅一(なかむらしいち)【萬屋よろずや)】
 中村獅童の弟子。本公演ではそれほど目立った役をやったことはありませんが、『超歌舞伎』での立師の仕事や、『超歌舞伎』リミテッドバージョンでの敵役の演技などで超歌舞伎ファンにはおなじみの役者さんです。変則的な超歌舞伎の立廻りをうまくさばき、まだ若いにもかかわらず、驚くほど品のある演技を見せつけるなど、注目の若手役者です。

 

 

 

 すみません。大谷龍生さんだけ、わたくし一度も拝見したことがなく、項目を作れませんでした。龍生さんの演技も楽しみに7月を待ちたいと思います。

 

前回のエントリ

tsubana.hatenablog.com

「○○(地名)は治安が悪いから近づいたらあかん!」と言わないで欲しい

 私の地元は大阪でもそれなりに知名度が高い場所だ。繁華街に近く便利な場所で、安い飲み屋が多かったり、まあまあ大きな商店街があったりするので、遊びに来る人も多い。お上品な町じゃなくて、ちょっと下町風な感じだ。スナックや風俗店も多かったりして、夜の街のイメージが強い。そういう町で生まれ育って、それを変だとは思っていなかった。出身地を言うと「あそこって人住んでるんや」とか言われたこともあったが、「繁華街ってイメージが強いのかな」としか思っていなかった。ガラ悪い、とかもよく言われたが、まあ下町だしガラが良くはないよね、程度の認識だった。自分の住んでいる町が(まともな)人が住むような場所じゃない、と言われているのだと分かっていなかった。

 それを理解したのはたった数年前である。某女性に人気なゲームの舞台化作品が、ちょっと大阪市内から離れた場所で公演することになった。その場所にはどうやって行ったらいいのか、どこに泊まれば便利なのか、という話になって、いくつかビジネスホテルを擁するわが地元も話題に上がったのだが、その時に「○○(うちの地元)はすごく危ない街だからぜったいに泊まらないで!」というツイートがめちゃくちゃバズってめちゃくちゃ拡散された。
 ちょっとびっくりしてしまった。そんなに危険視されていたのか。
 私は真夜中でも必ず道に複数の人が歩いていて、煌々とネオンが輝いているこの町はすごく安全だとまじで思っていたのだ。でも世間の認識は違うらしい。そのツイートにはぶら下がる形でうちの地元がいかにヤバいかという情報がいっぱい載っていた。確かに風俗店もラブホもいっぱいあるし、たまに酔って大声で叫んでいる人もいるが、でも、そんなの梅田や難波でもそうやん、と思った。が、事実は事実なので……。でも絶対に泊まってはいけない街に自分は住んでいるんだ、っていうのはショックだった。だが、その人は善意でこのことを書いてくれている。みんなが危険な思いをしないようにと思って書いてくれているのだ。そんなに危険じゃないけど、と思ったけれど、それは私の基準なので押しつけることは出来ないな、と思って、一応この町はそんなに悪い街じゃないよ、という意味のツイートだけをして、終わった。

 

 ところがこの度、また違う場所、大阪市内じゃないホールで某舞台が行われることが決まり、またもそのホールの地元の場所が治安が悪いから気をつけろっていうツイートが回ってきた。
 うーん。正直すごくもやもやした。
 その場所は私の地元よりよっぽど住宅街だし、確かにちょっと離れたところに風俗街があるが、繁華街に近い街に風俗店があるのは日本の伝統なのであるところにはあるのは仕方ないと思う。工場地帯もあるので、工場地帯の道は夜だと人通りが少ないのかもしれない。でもそれは治安が悪いっていうかな? 田舎道だって人通りが少なくてあぶないのは同じではないだろうか。でも田舎道を治安が悪いって言わないだろう。
 私はその街には住んでいないので数回遊びに行ったことしかないが、すごく親切な人が多い印象である。下町のイメージ。
 でも、このツイートをしてくれている人が善意で言ってくれているのはすごく分かる。危険な思いをしてほしくない、ということで言ってくれている。もしかしたら、その人はその街で危険な目に遭ったのかもしれない。だから、それを言ってくれていることにどうこう言ったらいかんのかな、て思って、もやもやしながらも何も言わなかった。

 でも、今日私はこの記事と出会いました。

shueisha.online

 西成は治安が悪い、ていうのは、うちの地元とは比べ物にならないくらいよく言われることだ。実際、西成で怖い思いをしたことがある人もいるかもしれない。でもその対象を西成という土地全部にひろげて、危険だというレッテルを張ることは「西成差別」である。

西成や西成高校についてよく知らない人たちが勝手な決めつけと偏見で、平気で差別的言辞を高校生に投げつける。

 「○○は治安が悪いから近づいたらあかん」と言うことはレッテル貼りだ。それを見たり聞いたりした人が、○○のことをよく知らないのに、ただ○○に属しているというだけの人に差別的な発言をしてしまう。だから、私は当事者になった時に、本当はその悔しさをちゃんと開示するべきだったのだなと思った。それは違うと、本当はもっと正面切って反論しなければならなかった。治安が悪い、危険な街というレッテルを貼るのは、その街のたった一面を強調して言ってしまっていると思う。

 ただ、善意でのツイートなのはすごくよく分かるので、言い方を変えてみてはくれないだろうか。

「駅の南側は工場地帯なので夜は人通りが少なくなります。気をつけて」とか、「近くに飲み屋街があるから、時間帯によっては酔っ払いが多くてあぶない」とか。これはその土地特有の治安の悪さじゃなくて、工場地帯なら、飲み屋街ならば起こりえる危険なことだから、その土地自体を貶めることにはならないかなと思う。
 これが正しい解決法なのかはよく分からないけれど、「○○は危ないから近づいたらあかん!」と言った時に、その言葉を聞いた人が、○○に住んでいる人たちをどう思うかということも想像してみて欲しいなと思います。

 

「新作歌舞伎 刀剣乱舞」出演俳優のプレゼン(ご紹介)✨✨

 「新作歌舞伎 刀剣乱舞」の製作が発表されました~~~~!

 待ってましたぁあああ!!

 うれしすぎるので、現在発表になっている出演役者さんについて、軽く紹介記事を書きました。予習にご活用ください。
 はっきり言って、めちゃくちゃいい役者がそろっていると思います! 誰がどの役なのかわかりませんが……、みんな芸達者なので心配はありません! 楽しみすぎます!

 

 

尾上松也(おのえまつや)【音羽屋(おとわや)】

 ミュージカルなどの舞台や、近年ではドラマ出演も多いのでご存じの方も多いでしょうか。外部出演も多いですが、決して歌舞伎をおろそかにしているわけではなく、数々の大きな役をこなしている立役の役者です。
 個人的には「義経千本桜」の狐忠信や、碇知盛など、時代物の役を型を大切にしながら、しかし表情などにどこか独自の工夫がみられる演技が好きです。化粧映えする端正な顔だちも魅力。座頭で若手を引っぱる力もある、文句なしの実力派です!

尾上右近(おのえうこん)【音羽屋】

 右近さんもテレビ出演やミュージカル出演が結構多いですね。最近では「ジャージーボーイズ」で有澤樟太郎さんやspiさんと共演していたので、劇場でご覧になった方も多いかも?
 江戸浄瑠璃清元節宗家の出身ながら、曾祖父六代目尾上菊五郎に憧れ歌舞伎界入り。2018年には清元の名前「栄寿太夫」も襲名、歌舞伎と清元を両立していくそうです。女方も立役もやれる役者さんですが、最近は立役が多いです。舞踊の名手。声もいい(歌舞伎において声は重要)。「ワンピース歌舞伎」ではケガをした市川猿之助の代役→大阪松竹座公演では猿之助と交代でルフィを演じたのでご覧になった方もいるかもしれません。人気の若手役者さんです。歌舞伎界には他にも右近さん(市川右近)がいるため愛称「けんけん」(本名「けんすけ」から)で呼ばれることが多いです。

中村鷹之資(なかむらたかのすけ)【天王寺屋(てんのうじや)】

 若手の役者さんで、いままで本公演でものすごく大きな役をやったことはあまりない…気がしますが、なんか来年くらいからちょっとずつ大きな役が決まっています。これから売り出す役者さんって感じですね。自身の勉強会「翔之會」で様々な役や舞踊等に挑戦することで芸を磨いてきた、本当にこれからが楽しみな役者さんです。今のうちに目をつけておけば、数年後「あの頃の鷹之資はまだ若かったけど、すでにめちゃめちゃ上手かった」と自慢できること間違いなしです!

中村莟玉(なかむらかんぎょく)【高砂屋(たかさごや)】

 子供のころから歌舞伎が好きで、一般家庭から歌舞伎界入りし、中村梅玉の部屋子となりました。さらにその実力が認められて2019年に中村梅玉の養子(つまり後継者)となった、実力派の若手役者さんです。
 本来は女方の役者さんですが、最近は立役も増えて、梅玉ゆずりの気品ある演技が魅力です。あと、めちゃ顔がイイことでも界隈では有名。かわいい系のイケメンです。「新作歌舞伎 NARUTO」では、めっちゃくちゃかわいい春野サクラを演じました。品のある役者さんです。前名「中村梅丸」から付いた愛称「まるる」でいまだに呼ぶ人も多いです。

 

中村梅玉(なかむらばいぎょく)【高砂屋

 2022年重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。主役をやらせても非常に素晴らしいですが、梅玉さんのすごいところは、いわゆるバイプレイヤーとしての凄まじさです。主役とガンガンに演りあうのでなく、充分に主役を引き立たせながら、かといって一歩引いているわけではなく、ものすごい存在感を観客の心に残して行く、他に代えがたい役者です。特に品のある貴公子を演じさせると絶品。
 得意な役としては「梅玉義経義経梅玉」と言ってもいいほど、中村梅玉といえば源義経。美しく気品ある梅玉義経は至高の芸術です。
 ここまで読んでなんとなく察している方もいると思いますが、私はめちゃくちゃ梅玉さんが好きですが、仮にも人間国宝なんで! 贔屓目でなく、本物の実力ある役者です。本来ならこういう新作歌舞伎には大御所は出てこないので、梅玉さんが出るのは結構びっくりしました。でも優しくてお茶目なお人柄なので、まあ出かねないかな、という気もします。ともかく、せっかく同じ時代に生まれたなら、一度は見ておいて損のない役者です。

 

 

 歌舞伎の世界というのは、結構後ろ盾が大事で、父親が歌舞伎役者じゃない役者さんや、父親が早くに亡くなった役者さんというのは苦労されます。でも、最近は少しずつ、そういう傾向も変わってきたかな? と思います。
 奇しくも、「新作歌舞伎 刀剣乱舞」に出る役者さんは、早くにお父様を亡くされた方や、お父様が歌舞伎役者じゃない方ばかりです。最初から順風満帆にキャリアを積んできたというよりは、苦労されて、しかしひたむきに芸を磨いて今の地位を築かれた方たちです。脚本も初音ミクの「超歌舞伎」などで実績のある松岡亮さんで、「新作歌舞伎 刀剣乱舞」かなり期待できると思います! 楽しみに続報を待ちましょう!

 

追加発表の俳優さんのプレゼン↓

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