「憂国のモリアーティ」に見る近代社会思想史-モリアーティの犯罪思想その2(ヘーゲル)

 これらの記事を元に同人誌を作成いたしました!

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 ↑ 前回は、モリアーティ史観の話をしたので、次はとうとうモリアーティの政治思想だな! て意気込んでたんですけど、19世紀後半~20世紀初頭のイギリス社会思想語るにはその前段階を語らないと無理では?? と気づいてしまったので、その前段階部分+私の妄想をからめて、「ウィリアム・ジェームズ・モリアーティはかなりヘーゲルに傾倒しているのではないか?」ということについて今回は語ります。

 はっきり言ってこの「ウィルはヘーゲルマニア説」はかなりこじつけだなと自分でも思う部分があるので、まあ一種の二次創作だと思って読んでください。
 さらに自己弁護を重ねると、ヘーゲルの思想というのは非常に難解で、正直私はその全体を把握しきることができていません。このエントリはヘーゲルの思想のほんの一端をなぞっただけ、私の都合のいい解釈に過ぎないので、ちゃんとした思想については、しっかりとした文献を当たっていただきたく思います。まとめると、ともかく特にこのエントリは鵜呑みにしないで! です。

 

神の摂理としての弁証法

 前回、ひたすら弁証法について語っていたんですけど、これは私のせいじゃなくて、ウィリアムのせいなんです。なんか事あるごとに、ウィリアムは弁証法を使おうとしますよね。確かにこの世は矛盾に満ちているので、相反する二つの命題に出会うことは多く、そのたびに弁証法を使うのはおかしくはないんですけど、それにしても弁証法……好きだなって思っていました。それで、この人は相当ヘーゲルを読み込んで傾倒しているんじゃないかと思ったんです。
 まあ、ウィリアム本人は弁証法としか言ってなくて、ヘーゲルが好き! みたいな発言は皆無なので、「ウィリアムはヘーゲルが好き」設定は私の妄想でしかないのですが、このまま突き進みます。二次創作なので。

 ではなぜウィリアムはそんなにもヘーゲル哲学に惹かれたのか。理由は数多あるとは思うのですが、私が思うに一番の理由は、彼はヘーゲル哲学に出会うことで、新しい世界の解釈方法を得たというよりも(いや、そういう面も大いにあったとは思いますが)、彼がなんとなく持っていた世界の理解の仕方や考え方に、ヘーゲルが論理的な説明をしていたことがあったのではないかと思っています。

 まず、一番大きなカテゴリとして、宗教の問題があると思います。
 ウィリアムの生きた時代というのは、科学が大きく進歩し、それによって社会の仕組みも大きく変わり、伝統宗教の教理の土台が揺らいだ時代と言えるでしょう(本当はその前から結構揺らいでいると思いますが、科学の驚異的な発展でさらに揺らいだ時代、と言えると思います)。ウィリアムは相当の読書家でしたから、幼い時から自然科学の知識も十分に持っていたと思います。
 同時に、彼ははっきりとキリスト教を信仰しているようです。多くの方が指摘しているように(というか私はみなさんの指摘を見て「ほんまやな」って思ったんですけど)、彼は、かなりキリスト教的世界観に基づいた発言が多い人物です。「全ての悪魔は地上にいる」という彼の宣言は、どこまでもキリスト教的世界観に基づくものです。
 宗教と科学の関係をどう読み解くかというのは、現在においてもなかなか難しい問題でしょう。敬虔なキリスト教徒であり、同時に優秀な科学者である人物はたくさんいますが、そういった人たちも、一度はこの問題にぶつかったことがあるんではないでしょうか。

 ヘーゲルもまた、この問題に取り組んだ人物の一人でした。
 ヘーゲルは敬虔なプロテスタントの家庭に育ち、父親に牧師になることを嘱望されて、神学を学ぶためにテュービンゲン大学に進学します(ルター派牧師のエリートコースです)。ここで深く神学と哲学を研究するうちに、彼は当時のキリスト教に対して懐疑を深めていきます。結局若き日のヘーゲルはこのキリスト教への反感と懐疑を払しょくできず、牧師への道を諦めることになりますが、ここから数十年の研究を重ねて、彼は宗教哲学の一大体系を完成させました。

 以下にヘーゲル宗教哲学について多少述べますが、これはヘーゲルの思想を知るうえでどうしてもはずせない部分でありながら非常に難しく、また私にキリスト教的素養が足りない部分もあり、理解が深くありません。よってここには非常に限られたエッセンスだけを取り上げますので、その全体像については文献を当たっていただきたいと願います。

 ヘーゲルはまず、世界が創造される以前の神について考察します。この神は世界を創造した創造主なので、世界とは別のもの、世界の外に在る神です。これを永遠の理念と呼びます。この非実体の理念は内的矛盾により運動性があり、矛盾の高まりによって次の段階にいたります。
 永遠の神がおのれを規定し、根源的に分割し区別された他なるものを自由で自立的なものとして開放すると、この自立的他者として世界一般が成立します(天地創造)。それは自然世界と有限な人間の精神世界とに分かれます。このようにして創造されたものは、神の外に置かれた他者です。しかしこの他者たる有限の精神は神を認識しますから、離れている神と関わるという矛盾に陥ります。そして神は分離して置かれたこの疎遠なものを自分と和解させます。ここに神性と人性が一致し、霊が人間に宿るのです。

 多分、ここだけを説明しても分かり難いと思うのですが(そもそも私が理解しきっているとはいいがたいのですが)、ここで注目して欲しいことは、前回見た弁証法の定式がこの中に出てきているということです。矛盾するものを統一(和解)して高次の段階へすすむという弁証法の定式。実は弁証法とは神の摂理、あらゆる事物やあらゆる現象に内在し、それらを支配する神の摂理こそが「弁証法」であるというのが、ヘーゲルの考えの根本にはあります。

 そうすると、ウィリアムが弁証法をやたらと好むことの本質的な理由が見えてくる気がします。神の摂理である弁証法を全ての事象において運用することは、彼にとって神の御心に沿う、正しい行為であるでしょう。

 ちょっと話が逸れますが、ウィリアムが形式科学である数学を研究対象として選び取ったことも、もしかしたら彼の信仰と関係があるかもしれません。数学は、ある意味で神が作り出した美しい法則を研究する学問と言えます。パスカルニュートンといった数学者の研究が、宗教的情熱に支えられていたことも有名です。
 対してホームズは自然科学の中でも新しい学問、化学に興味が向いていますね。化学は目の前にある物質と、その現象に関心があるという点が大きな特徴なのかなと思います。実験の結果、はっきりと目の前で起こる現象に対して検証を重ね、読み解いていく学問ではないでしょうか。数学の方が観念論的な学問であるといえるでしょう。二人の思想性の違いが端的に表れているように思います。

 ヘーゲル宗教哲学は、従来の教義からかけ離れた、ある種汎神論的なものだったため、神学側からはこれを無神論だと批判する向きもありますが、少なくともヘーゲル自身は、終生ルター派プロテスタントの信者として暮らし、ルター派の教義を生きたものとするためにこの宗教哲学を完成させたことは間違いのないことです。
 ウィリアムが(おそらく)信仰する英国国教会ヘーゲルルター派の教義は一致しないにしても、カトリック的な教条主義に対する反感などの共通点はあり、受け入れやすかったのではないでしょうか。

 

欲望の体系「市民社会」ー権利はどこに生まれるのか

 もう一つ、こいつぁヘーゲル絶対好きだろ……という私の妄想を深めているのが、モリアーティの一種厳格な社会と人間へのまなざしです。

 ヘーゲルは「国家」から「市民社会」をはじめて峻別した思想家です。「社会」という概念を発見した人物、といってもいいかもしれません。前エントリでもちらっと触れたのですが、彼は「家族」、「市民社会」、そしてそれらを統一し調停する「国家」という概念を提唱しました。
 そして、権利は個人の「人格性」とそれを保証する場である「市民社会」に起源を持つとし、フランス人権宣言などに書かれた「人は生まれながらにして平等である」という説を否定したのです。

 「人は生まれながらにして平等である」という思想は、「自然権」という考え方に由来しています。これは主にロックが理論的に基礎づけた概念ですが、「社会学小辞典」から「自然権」の項を引用しますと、「自然状態を支配する自然法(人間の自然=本性である理性)が全ての人を拘束するという前提から、自然権は①個人の生命、②健康③自由➃平等の諸権利、ならびに⑤所有権にまで及ぶ。」さらにロックはこれに、⑥抵抗権⑦革命権までを含めるのですが、まあちょっと今はそこは置いておくとして、要は自然権とはもともと人間が有している権利、文明や社会が起こる前から当たり前に個人に備わっている諸権利のことを言います。
 しかし、ヘーゲルはこの従来の定義での自然権を否定し、人間は生まれながらにはむしろ不平等であると主張しました。
 ただ、ヘーゲルは人間の諸権利そのものを否定したわけではありません。権利は最初から個人に備わっているものではなく、「市民社会」が生まれて初めて、その社会の中で形成されたと主張したのです。「社会はそこにおいて権利が現実性をもつことになる唯一の状態である」これがヘーゲルの主張です。

 そもそも社会とは何か。ヘーゲルの言う「市民社会」の特徴的な原理は「欲求の体系」と呼ばれています。
市民社会の普通の姿は、詳しくは、個々人の資産と福利とがすべての他の人々の資産と福利によって制約されそれに組こまれているということである」
 要は、市民社会の基本にあるのは経済活動であり、人々はお互いの欲求を満たすために分業し、商品交換を行う。この個人個人の欲求のぶつかり合いが市民社会の原理だというのです。
 この社会は分業を前提としています。自分の欲求を満たすのは他人の生産物であり、自分の生産物もまた他人の欲求を満たすために作られる。そして、他者との相互的な関係の場である市場で、自分の力で作った商品の価値が承認されるということが、自分の労働だけでなく、それを作った自分の人格までもが市民社会の中で承認されるということになるのです。
 つまり、商品交換は、ひいては人格の相互承認であり、人格が承認されてはじめて、人の権利は認められるわけです。

 しかし、これは相当厳格な思想だと思います。労働と商品交換の基に人権が認められるのならば、あらゆる働いていない人には人格と人権が認められないということになってしまいます。一応、こういったものを「公共の福祉」によって補う概念として提示されているのが司法や「国家」だと言えるでしょうが、ともかく、ヘーゲルの考える人権というものは、言うなれば見返りを求めるものであるでしょう。

 モリアーティも、相当厳格に見返りを求めます。ウィリアムは子供時代にすでに「人は誰だって他人を利用する それは助け合いだ」と言っていました。この思想は非常にヘーゲル的だと思います。
 逆に言うと、市場で他者に承認されるような商品を提供できない者には人権はないわけです。悪事をおこなう貴族たちは、満足な商品を提供せず、ただ己の欲求を満たしているのですから、彼らの人格は承認されないでしょう。

 生存の権利は、自然法の考え方に基づけば、全ての人間にすべからく備わっている、一番最初の、基本的な権利です。この考えのもとでは、どのような場合も殺人は容認されないでしょう。しかしヘーゲルの考え方であれば、少々エキセントリックではありますが、殺人は場合によって認められる、という解釈も可能かもしれません。
 たとえ、最終的には地獄へ堕ちる覚悟をしているとしても、それが「良いこと」なのだと信じて殺人を犯すには、なにがしか本人が納得できる他からの承認が必要ではないかと思います。ヘーゲルの思想はウィリアムに一定の「承認」を与えたのではないかと、勝手に思っています。これはすべて妄想ですが。

 

愛国か、反体制か。保守か、革新か。

 ヘーゲルの思想はしばしば、愛国主義なのか、そうでないのか。保守派か、そうでないのかということが議論されてきました。彼は人間の自由や権利を認めながらも、最高の人倫の体系として国家を提唱し、その思想は当時の君主制に対して妥協的であるとも言えます。しかし、このようにヘーゲルの思想が保守的でない保守、革新的でない革新であることこそが、モリアーティの思想に重なるように思います。
 ロンドンを犯罪都市にし社会不安を煽るという手法は、どう考えても反体制派のやることです。しかし、モリアーティは憂国の徒、the Patriot として、あるべき美しい国の形を模索する者として描かれています。また、階級をなくし、市民に権力を等分割させるという思想は革新派の政治思想ですが、彼は今の貴族たちを革命その他の階級闘争によって排除することを否定しており(前エントリ参照)、その穏健な思想ゆえに国体維持を(おそらく)望むマイクロフトから一定の協力を得ることが可能でした。

 モリアーティの政治思想は保守なのか、革新なのか。思考のクセで私も憂モリを読みはじめた頃は、革新? 保守? ていうのをついつい考えながら読んでしまって、そして混乱しました。多分、どちらとは言えない。そして読んでいるうちに、もしかすると政治思想が保守か革新かという議論は、特に現代においてはあまり意味のないことなのかもしれないなと思いはじめました。なぜなら、近代以降、どの思想も基本的には人間の自由や権利を希求するという点では同じであり、むしろ右か左かで思考が固定されることで取りこぼしてしまう項目が、社会が複雑になることでどんどん増えてきているように思います。

 ヘーゲルのこの、保守とも革新とも言える思想は、その後の思想家たちのそれぞれの立場からの解釈や批判によって、保守派の思想にも、革新派の思想にも流れ込んでいます。特にイギリスでは、このヘーゲルやカントなどドイツ観念論と、ベンサム、ミルなど功利主義の思想を発展させたトーマス・ヒル・グリーンなどの思想家が19世紀後半に出ます。こういう話をしたいと思っていたはずなんですけど、いつたどり着くのか……?
 とりあえず今回は、偉大なドイツ観念論の高峰ヘーゲルの思想の、ごくごく一部を紹介させていただきました。

 

ヘーゲル「惑星軌道論」とモリアーティ「小惑星の力学」

 すみません、妄想はまだ続きます。この項はあまりにも妄想力が強すぎるので、突っ込みどころ満載だと思いますが、まあ我慢して読むか、もしくはもう読まないでください、一応話は前項で終わったんで!


 まずヘーゲルには「惑星軌道論」という論文があるんですよ。wikipediaの情報によると、この論文でヘーゲルは火星と木星間の軌道には惑星は存在しないと論じたそうです。しかし、実際にはこの論文が発表された時にはすでに、火星と木星の間に小惑星があることが発見されており、まあヘーゲルは間違っていたわけです。
 ただ、彼はこの論文が認められてイェーナ大学に職を得たので、他の部分には見るべきところのある論文なのではないかと思います(すみません、読んでいません)。

 ところで、モリアーティ教授には皆さんご承知の通り、「小惑星の力学」という有名な論文があります。この論文の本文は「発見」されていないので、どういった内容のものかは不明なのですが、アイザック・アシモフの説をとると、爆発した惑星の欠片である(とモリアーティの時代信じられていた)火星と木星の間にある小惑星帯の運動を計算し、惑星爆発の原因を探るという内容だったと言います。

 この説が正しいとすると、奇しくもヘーゲルが間違えていた、火星と木星間の小惑星についてモリアーティが述べていることになります。モリアーティは相当ヘーゲルを読み込んでいるので(私の中では)、当然このヘーゲルの「惑星軌道論」を読んでいるはずです。火星と木星の間に小惑星があるのは純然たる事実ですが、その小惑星の成り立ちを明らかにすることで、いくらかヘーゲルの「惑星軌道論」を擁護できるような論文を書いた、少なくとも「惑星軌道論」からインスピレーションを得て、モリアーティはこの論文を書いたんではないかと思います!!

 以上妄言でした!

 

 

 

 ところで、全然話は変わりますが、ヘーゲルの妹クリスチアーネは兄を深く愛し、兄が急死した後、兄のいない世界で生きることに耐えられず自死しています。

 

 


 <参考文献>

原案/コナン・ドイル 構成/竹内良輔 漫画/三好輝『憂国のモリアーティ』(集英社、2016~)

編著/中村健吾『古典から読み解く社会思想史』(ミネルヴァ書房、2009)

岩波哲男『ヘーゲル宗教哲学入門』(理想社、2014)

村岡晋一『ドイツ観念論―カント・フィヒテシェリングヘーゲル』(講談社、2012)

編集/濱嶋朗他 『社会学小辞典[新判増補版]』(有斐閣、2005.5新版増補版1刷)

著/アイザック・アシモフ 訳/池央耿「終局的犯罪」『黒後家蜘蛛の会 2(新版)』(東京創元社、2018)